麻雀打ちの頁/雀のお宿

まだまだ世間一般では麻雀をギャンブルだと思われることが多いが、それは明らかに間違っている。ギャンブルの多くはそれだけで楽しいが、麻雀はそれ以上に楽しい。一般的なギャンブルと麻雀との比較。

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ギャンブルな麻雀

ギャンブルな麻雀

ギャンブル全般の中での麻雀の位置づけは…

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だからぁ、ギャンブルが好きって言うか、無茶苦茶大好きなんだけど、それとは全然、別の次元で麻雀が好きなわけだ、アタキは。 元々、麻雀がギャンブルとして生まれて発展した歴史は間違いない。 だけども麻雀なんてーのが、デキル何百年も前から、ギャンブルはあったわけだから、ことさらギャンブルとしての側面を云々するのはどうかな、と。
賭けない麻雀ノーレートなんてーのが、わざわざ取り沙汰されるのはお金を賭けてやる麻雀があまりに一般的だからだ。
それがイイとか悪いとか、そんなことはたいした問題じゃない。 そんなこと問題にするくらいなら、毎回、ツモった牌を手の中に入れる奴だとか、リーチの発声をせずに牌を横向ける馬鹿者を処罰する掟の必要性を問うべきだ。

普通の、それもかなり普通の社会人に最も広く浸透しているギャンブルゲームは、麻雀/パチンコ/競馬/競艇/オート/競輪/宝くじの七つ。
これ以外にも、ゴルフ/カジノ/野球/株式相場/トトカルチョあたりがあるけど上の七つ程は一般的じゃない。
将棋/(カジノ以外での)ポーカー/チンチロリン/オイチョカブ等は手軽に素人が楽しめるギャンブルゲームだが、本引き/アトサキ/タブサイ等になると、非合法組織の本格的な介入なしに運営開帳されることは少ないだろう。
世の中、こんなに多くのギャンブルゲームが存在するのに、何故、麻雀だけが取り沙汰されるのだろう。 賭けない将棋なんて誰も口にしないのは何故だろう。 「馬の走る姿が好き」で馬場に通う輩は大勢いるけど、馬券を買わない人間はかなり変な奴だ。

他のギャンブルゲームと比べてみることで何かが見えてくるかも知れない。
  A:参戦型か観戦型か - ○は参戦型
  B:競技人口は多いか少ないか - ○は多い
  C:金銭を賭けずにゲームが成立するか - ○は成立する
  D:テラ銭が国庫に入るか入らないか - ○は入る
  E:特殊な装置やシステムが必要か否か - ○は必要
  F:短期的には初級者でも勝てるか否か - ○は勝てる

麻雀 ×
パチンコ ×
競馬 ××
競艇 ××
オート ××
競輪 ×××
宝くじ ×××
ゴルフ ××
カジノ ×
野球 ××
株式相場 ××
トトカルチョ ××××
将棋 ×××
ポーカー ×××
チンチロリン ××××
オイチョカブ ×××××
本引き ××××
アトサキ ×××××
タブサイ ×××

こうして並べてみると、麻雀というゲームは、ギャンブルという側面から一般社会との関わりを考えても将棋ゴルフ野球とよく似通っていることがわかる。

この項目の中に合法か非合法かを入れるべきだという意見は、馬鹿な奴の言い種だ。 現行の法律なんてどうにでも変わるし、逆に法律を少しでも善いものにしていこう、というくらいの気構えが必要だ。我々も、我々の社会も進歩しているのだ。の法律に縛られるなんて、進歩を諦めた情けない考えだ…と思う。

将棋ゴルフと同じように参戦型であり、野球とも同じように多くの競技人口がいて、金銭を賭けなくともゲームは十分すぎるほど成立するし、そして御上(オカミ)の管轄ではないのだ。
一般的な認識では野球ゴルフ将棋も、麻雀ほどのダーティなイメージはない。 賭けない麻雀を声高々に叫ぶ人々は、野球ゴルフ将棋のように麻雀というゲームのステータスを上げたいに違いない、という気がしてきた。 うん、たぶん、そうだ。

同じテーブルゲームである将棋との比較は多くの場面でなされてきた。
ほんの数十年前までは真剣師と呼ばれるプロがいて、プレーヤのことを将棋指しという言い方をしていた時代だ。 同じように碁打ちというのもあったけど、将棋連盟や所属プロの偉大な業績の結果、坂田三吉みたいな話は遠い過去のことになった。
麻雀も将棋みたいになる可能性があるのだろうか?
個人的には、そうなって欲しい気持ちがあるのは確かだけど、将棋と同じ道を歩むのは不可能だろうという気もする。
ゲームの性質上の問題だ。将棋は仏様のゲームだが、麻雀は神様のゲームなわけで、人間は精進すれば仏様になることはあっても、どんなに頑張っても決して神様にはなれない、という神様仏様理論に則った自分なりの結論だが、そんなことはあまり意味が無い。 麻雀は麻雀なわけで、将棋の何倍も素敵なゲームなのだから、そもそも将棋なんてーのを真似する必要はない。

神様仏様理論の解釈にはいくつかの学派が存在するがアタキは勝手にそう解釈しているわけで、その詳細についてはいずれこの[放言]にアップされるかもしれないが、そうでないかもしれない。
「神様のゲーム」として、1999.07 にアップしました。

賭けない麻雀を叫ぶ人々の全員が、麻雀のあるべき姿についての明確なビジョンを持っているわけではないだろう。
何となく金銭を賭けることへの拒絶感を抱いていたり、うまく言葉にできない為に法律違反だからなどというような理屈を持ち出す。 それじゃ、あんたは法律で認められれば賭け麻雀をやるのか。 そうではない筈だ。 いや、そういう人もいるだろうけど本当は「麻雀は賭けなくとも、あるいは賭けないからこそ、面白い」っていう事実を知ってるからじゃないのか。 なのに、現在の状況がそうでないことを悲しく感じているのじゃないのか。
そうでなければ(つまり、法律違反だからという理由だけで賭けを拒否するようなら)友人にはなりたくない。 さようなら。お元気で。

たぶん、麻雀は賭けなくとも面白いゲームだ。
そうでなければ、毎晩ネット上での対戦が行われるわけはないし、ゲーセンにあんなに多くの脱衣のバリエーションがあるはずがない。 脱ぐだけなら野球拳でもいいのだ。
しかし、アタキは賭け麻雀をやっている。アタキは賭け麻雀が好きなのだ。 正確には麻雀も好きだけど、ギャンブルもそこそこ好きだ、ということだ。 賭け麻雀をやる人は、麻雀が好きなのではなく、ギャンブルが好きなのだというのは少なくともアタキには当てはまらない。 アタキは、ギャンブルだけが好きなのではなく、麻雀も好きなわけで、実際に賭けない麻雀もやるし、麻雀以外のギャンブルも四六時中やっている。

ギャンブルに対する拒絶感があるのは理解できる。
懸命に働いて手にした財産をくだらない博打で失った話はいつの時代でも悲劇に違いない。 だけどこれも人間の正常な営みというか、だからこそ潤いのある人生が送れるというか、ん~、うまく説明できないけれど、色んな失敗や、アッと驚くタナボタなんかが生きていく上での大事な糧の一つというか、とにかく完璧でない人生ほどカックイイようなそんな気もするのだ。 勿論、額に汗して、歯を食いしばってるのも同じように素敵だ。
ただ、気掛かりなのは、あまりにこの拒絶感が、画一的な教育的指導的性質を帯びていそうなそんな戦後の「皆と同じが間違いない」良い子育成システムの、悪しき成果であるような気もするわけで、ギャンブルを立派な大人の余暇の一部として認知するだけの文化が今の日本には欠けているのではなかろうか。 おお、文化論になっちまった(笑)。
公職の選挙結果までをブッキングしてしまう国が素晴らしいかどうかはアタキには判断できないけれども、少なくとも彼の国では、個人の意志による社会的行動を疎外しないだけの文化が育まれていることは明白だ。 本音で、ギャンブルを紳士淑女の趣味として捉えているというよりも、どうせ禁止なんてできないのだから認めてしまえ、なんてーのが根底にあるのかもしれない。

麻雀に関して言えば、他のギャンブルのどれとも明らかに異なる点がある。
それは、ギャンブルとしては成立しにくい、という事実だ。 個人的な経験では、他のどんなギャンブルと比べても、一番ギャンブルらしくないのが麻雀にほかならない。 雀鬼や漫画の中の主人公だったら、本当の大きなギャンブルというものを麻雀の世界に見い出すことはできるかもしれないが、アタキは、あんなのは物語の世界だと思ってる。
何故、麻雀がギャンブルとして成立しにくいのか、というと、それは進行があまりにスローモーなせいなわけで、一回の勝ち負けを決するのにこんなに時間がかかっては、これはギャンブルとしてはすこぶる効率が悪い。
だけども、ギャンブルの文化が貧弱な現在のこの国では、何故か麻雀がギャンブルだと見なされている。Yahoo! のカテゴリーでも、麻雀はギャンブルの一部だ。

もっとギャンブルが、世間一般に認知されるといいのにと思う。
皆が今の何倍もギャンブルで無駄な時間を過ごすようになると、麻雀はギャンブルとしてはあんまり面白いゲームとは言えない、ということに気付くに違いない。
だけど、麻雀の競技人口は減らないのだ。 何故なら、麻雀はギャンブルの対象でなくとも充分過ぎるほど、面白いゲームなのだから。

いかん、本当に言いたいことに辿り着く前に、結論みたいになっちまった。
この言いたか言いのこきたかこきは、続編がある筈だ。 いつになるのかは、例によってわからんけれども。

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