麻雀打ちの頁/雀のお宿

複雑系モデルとして麻雀というゲームを考えてみる。というかあらゆるゲームの中でも、麻雀こそは複雑系のモデルとして相応しいのではないか。という提言。

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複雑系

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複雑系ってなんじゃ…

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麻雀は奥深いゲームだと言われる。
中にはそうでないと主張する人もいるが、まぁおおかたの人は奥が深いと思っている。
何と比べて深いのか、どれくらい深いのか、アタキにはよくわからないが、少なくともアタキ自身、奥が浅いとは感じてない。だから「深い」ということにしてもよいのだけど何だかうまく説明できないのが悔しかったりするので、何年か前から意識的に「奥が深い」なんて軽々しく口にしないように努めてきたつもりだ。
だけど、麻雀というゲームそのものの素晴らしさや、自分がドキドキするところの根本にある(ような気がする)何かしら素敵な部分、つまり麻雀だけが持っている特殊な「良さ」をうまく表現できないものかとずっと思ってた。
アタキは残念なことにノーベル賞を受賞したことが生まれてこのかた一度もなく、近い将来にもそのような予定はないのだが(考えてみると本当に残念なことだ)、かのサンタフェ研究所の先達にならって、麻雀を「複雑なシステム」と捉えることによって、 色々と明らかにできることがあるような気がしている。
サンタフェと言えば、宮沢りえのヌード写真集で、ヘアヌードの走りと言えば樋口可那子で、彼女は糸井重里の奥さんで、これは「ほぼ日」のダーリンなわけだけど、そんなこととこの放言は何の関係もない。ごめん。
この放言は、麻雀を複雑系としてとらえた世界初の論文になるわけだが、どんな結末になるのか今のアタキには予想できない。 そしてたいしたものになるとは思えないので、あまり予想したくもない、というのが本音でもある。
尚、余談ではあるが、アタキ自身がノーベル賞の授賞について強く拒否しているという事実はないので、その応援を勝手にしてくれる人がいるとありがたい。 別にノーベル賞でなくともアカデミー賞でもピューリッツァ賞でも有線放送大賞でも博多町人文化連盟功労賞でも、そこそこはありがたいとも思っている。
ここ数年のアタキは人間的にもかなりデキテきているので、上に掲げたような賞がもたらす「名誉」や「栄誉」や「ステータス」などにはあまり興味がない(ゼロではない所がまだまだだ)。 ただ、副賞や賞金にはおおいに興味があるので、まぁ、つまり、そういうことだ。

「複雑」という言葉は「単純」の反対であって、「"単"でなく"複"」「"純"でなく"雑"」ということだ。
例えば、家庭用ビデオテープのベータとVHSの争いに見られたように、ほんの少しの有利さが結果としてベータへのロックオン状態を招いて、...云々云々、うん、こんな説明は誰も喜ばんね、ごめん。
おっと、もうひとつだけ、本題の前にノーガキ。
アタキは麻雀の複雑さを無くすべきだとか、こうすれば単純でスッキリするとかを言うつもりはない。
ただ「麻雀はこんなに複雑なんだ」と再確認したいだけだ。
このことにどんな意味や価値があるのかは不明だ。 しかし、何の価値もないという可能性はおおいにありうる。

「複雑なシステム」としての三つの要件を麻雀が満たしているのは明白なことのように思える。

第一に「エージェントが多くもなく、少なくもない」ということ。
この場合のエージェントとは、もちろん、打ち手を指す。 実際に囲んでいる四人のことだ。
対戦型ゲームにおいて、四人という数は、これ以上はないほど丁度良い人数の筈で、チェスや囲碁、将棋のように、これ以下だと全員の指向が線形的になり過ぎるような気もするし、これ以上ではカオスの度合いが深まり、複雑というよりも乱雑になりそうだ。

第二に「エージェントは知性を持っている」こと。
基本的には打ち手の全員は知性を持って、自分の和了りを目指したり、他家への放銃を避けたり、流局を目指したりするものだ。
中には何考えているのかさっぱりわからん打ち手や、知性のレベルが低すぎる打ち手がいることもあるが、エージェント(=打ち手)それぞれにしてみたら、きっと何らかの考えがあって、つまり自分自身の持っている知性に従って行動しているのは間違いない。
ただし、この知性は、麻雀を戦っている時にだけ発揮されるもので、麻雀すべきかどうかみたいなメタ的な状況で発揮されるものでないのはあらためて言うこともないだろう。 本当に知的であれば、明日の仕事の影響を及ぼす可能性があるような夜遅くまでの麻雀なんてやるのはおかしいかもしれない(笑)。

第三に「各エージェントは自分の知った情報にのみ基づいて自分の行動を決定している」こと。
三つの要件の中で、麻雀を麻雀たらしめている一番大切なことで、その局の全体を把握する方法が存在しないという事実、つまりエージェントの誰も他の三人の手や山に眠っている牌を看破できない、という点は、これぞ複雑なシステムであることの証左と言えそうだ。
各エージェントは、自分が知ることのできる情報のみを頼りにして、捨て牌したり副露したりリーチしたりするわけで、これがもし積み込みなんかが横行している状況では麻雀とは言えないわけだ。

さて、以上で、麻雀というゲームが複雑系のモデルとしては格好の研究対象であることがわかった。 少なくともプロ野球の結果や、携帯電話の普及度合いを考えるよりも意義深いものの筈だ(少なくともアタキには(笑))。
しかし、サンタフェ研究所には麻雀なんて知らない人も多いだろうから、ここでエージェントの目的を明確にしておこう。
巷で行われている麻雀のすべてが、今から述べることと一致しているわけではないけれど、その大半はカバーできている筈なので、ここに書いてあることだけを信じて、麻雀研究に勤しんでもらいたい。
・エージェントの第一目標はトップを勝ち取ることである
麻雀の実際の戦いは「局」という単位で行われ、その「局」における点数のやり取りを「半荘」という単位で集計して勝ち負けを決定する。
この「局」は、野球における「回」やアメフトにおける「クォーター」と同じく、その単位での途中の攻防のみが結果に影響を与え、次の「局」とは直接の関係は何もないのが普通(ただし連荘という規則はあるが)。
そしてエージェントの最大の目標は、四人の中で最高の得点を得ることである。
ゼロサムゲームであるので、自分の得点を増やすことは相手三人の得点を減らすことと等価だ。 だから正確には、多くの得点を得るというよりも、他の三人の誰よりも上の得点状態で半荘を終了させることが真の目的といった方が正確だ。
一般的には、大きなトップと小さなトップの相違は、トップとそうでないこととの相違ほどは大きくない。 大きくても小さくてもトップはトップ、であることが多い。
・トップは半荘終了時まで決定しない
半荘の途中でトップが決定することはない。
つまり途中経過時点で、トップでないものは、その半荘を終わらせないように努力する。 親であれば連荘するし、安い手で他人の親を蹴ることはしないのが普通だ。
逆にトップ者(途中時点での仮のトップ者)は、早く半荘を終わらせるために他人の親を終わらせようとするし、自分では連荘しないようにする。
この時点で初めて、トップ者以外の三人の共謀が実現し、エージェント個々の思いはカオスティックな状況を見ることになる。
とはいえ、戦いの材料となる手牌には常に偏りが見られるので、全員が自分の思い通りの結果に向かって切磋琢磨することは不可能で、仕方なく観戦者としての立場に立たされるエージェントも発生する。 これはすべて配牌とツモ牌に依存している。
・エージェントの気持ちは揺れ動いている
第一目標がトップを勝ち取ることであることは間違いないことではあるが、トップ者以外にも何らかのランクが付くことがままあり、「二着でもイイや」「チップを手にすればマル」「レーティング値が下がらなければOK」なんてことを考えるくらいには、弱い意志のエージェントは多い。
いやいや、意志の問題というよりは目的意識の違いかもしれないが、例え目的を明確に規定してさえもエージェントには迷いが発生する。 どちらの牌を切るべきか、の迷いではなく、この局を進めるべきか否かの迷いだ。
これはルールをどのように変更しても阻止できない類いの問題である(この件は、別の放言ネタとしてとっておこう)。
・麻雀は明日もできる
前項と近いのだが、その半荘という戦いが、エージェントにとっては唯一の戦いであることはない。
半荘という単位にしても数回行うのが普通だし、明日にでも、あるいは来週にでも同じように戦えるので、毎回毎回、自分の持っているすべての知力を総動員して麻雀に臨むエージェントは(たぶん)いない。
もし、誰もが、一年に一半荘しか戦えないとしたら、麻雀は違う様相のゲームになるはずだ。

ジャンケンやチェスや交通渋滞や株式の動向なんかよりも、麻雀の方がずっと「複雑系」のモデルとして相応しいという事実が以上でわかったからには、世のスーパー研究者の皆さんはすぐにでも麻雀の研究をやって頂きたいもので、実はそれこそがアタキの本当の目的だったりするわけで、麻雀につきものの色んなオカルト(牌の流れ/ツキ/運のやり取り等)を払拭するのは、アタキ達麻雀愛好者にはお手上げであるので、学術的な見地からこれらについての究極の回答を強く望む次第だ。

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