麻雀打ちの頁/雀のお宿

麻雀対局を観戦すること観戦されることの是否について考える。観戦することの何がいけないのか、何の問題もないことなのか、どのような観戦なら許されるのか。

公開

感染する観戦

感染する観戦

麻雀打ちが観戦しないなんて、そこに山があるのに登らない登山家…

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 寒村の河川のそばを走る新幹線は感心せん、帆船で感染した病気が快全、阪神戦への参戦は完全には躱せん、肝心の為替への関心に感心した管さんの母さんの汗腺、…。
 ごめん、感染のことじゃない。観戦の話だ。
 麻雀観戦についてだ。
 アタキは百貫さんと呼ばれることが多い。

 『上達するの法?』で逆説的に述べた通り、アタキは観戦は断然マルだと思ってきた。
 麻雀において観戦は、するのもされるのも当たり前のことだと思ってきた。
 そう思ってきた一番の理由は簡単だ。自分自身が観戦しながら麻雀を覚えてきたからで、そしてずっと観戦されてきたからにほかならない。
 自分が育ってきた環境こそが普通なんだと勝手に解釈してしまった結果であって、あるフリー雀荘で「観戦は禁止です」と初めて言われた時には、そんなの麻雀じゃナイ!とまで思った。
 少なくとも、フリー雀荘における楽しみの一つをはく奪されたような気分になった。
 だが、マナーが良いとされているフリー雀荘のいくつかでは実際に禁止されていることが多いという現実を知ってしまった。そして、観戦されるのがイヤだと思っている打ち手が多数存在しているということも知ってしまった。
 もう放ってはおけない。
 観戦の是非を真面目に考えてみる。

 観戦の何がマズいんだろう。
 観戦するのは悪いことなのか。
 観戦されると困ったことでも起きるのかしら。
 アタキの疑問に答えてくれた方々がいる。麻雀研究家の浅見了氏と麻雀ライターの山崎かな女氏だ。
 お二方から頂いたメールでの回答は多くの示唆を含んでいた。

アタキが楽しい麻雀ライフを満喫できているのは、実はこの二人のおかげだ。
様々な形で多くのカタギの衆や、マニアに向かって情報を発信し続けているこの二人がいなければ『雀のお宿』は今の形になってなかった。
感謝、感謝、感謝だ(ココを読んでる君も感謝するよーに!)。

 浅見氏からの回答の格子は次の通り。
  ・観戦が受け入れられないのは、プレーヤーと観戦者の双方に原因がある。
  ・本来自分しか見ることができないモノを見られることへの抵抗がある。
  ・自分がヘタな所や失敗を見られたくないという思いがある。
  ・上級者が口を出すことが実際に多くあり、誰だって色々と言われるのは嫌だ。
「秘すべきモノを見られることへの抵抗感」「誰にでもある失敗や欠点をさらけだすことへの抵抗感」「他人にとやかく言われることへの抵抗感」などが打ち手の側にあるようだ。 「他人にとやかく言われることへの抵抗感」の根本原因は、そう言う観戦者の側にある。
 氏は最後にこう付け加えた。
  ・観戦させてもらってるのに仁王立ちになって見下ろすなんておかしい。
 これは面白いと思った。
 と言うのは、氏がはからずも「打ち手が主であり、観戦者は従である」という認識を披露している点だ。
 本当にそうだろうか。

 山崎氏からもらった回答では「わしは麻雀を見ながらワイワイ言うのが好きだ」「麻雀番組も野次を飛ばしながら観る方が楽しい」という個人的な思いの後に、以下のような主旨の文章が続いた。
  ・観戦することやされること自体が悪いわけではない。
  ・問題なのは観戦に付き物の「ワイワイ」だ。
  ・「ワイワイ」だけの禁止は困難なので観戦そのものも嫌がられる。
 フリー雀荘では何より嫌われる「ワイワイ」が、観戦禁止という事態を招いているようだ。
 氏はオンライン麻雀(ネットによる対戦ゲーム)にも言及し、観戦したいという人、観戦させてもかまわないと思う打ち手、観戦されるのを拒む打ち手の間で繰り広げられる「観戦者のチャット参加許可不許可の攻防」があるとの情報をいただき。
 また、手牌の公開は打ち手が選択できるらしい(もしかするとここを読んでいる多くの人にとっては常識のようなことでも、ネット麻雀をやらんアタキには新鮮なことだ)。
  ・観戦そのものの評価はまちまちだろう。
  ・完全禁止か、べったり密着するかのどちらかが嬉しい。
 べったり密着というのは、観戦者が打ち手に質問もでき、打ち手も言い訳ができるような環境とのこと。
 観戦に付き物の「ワイワイ」が観戦禁止の主な理由ではあるが、その「ワイワイ」にも麻雀の楽しさ、魅力があるとの意見である。

 ということで、ただ「観戦」の一言ではすまされないな、というのが、回答をもらっての感想だ。
「外部からの口出し」や「楽しいワイワイ(笑)」は、本来の意味での観戦とは別の事柄だろうと思われる。
 例えば、ゴルフやテニスでは観戦という行為は当たり前のように行われているが、「楽しいワイワイ」は禁止されているのが普通だ。しかし、野球やサッカーでは「楽しいワイワイ」そのものが現実のゲームに与える影響それさえも容認されている。
 将棋やオセロで「外部からの口出し」が起こるのは許されないことだし、それを許してしまっては別のゲームになってしまうに違いない。
 通常のルールの麻雀ならば、「外部からの口出し」は禁止されるべきことのはずだ。
 そして、ゴルフやテニスでの場合と同様に「楽しいワイワイ」も控た方がいいだろう。ある局が終わって、次の局が開始されるまでの間に観客から拍手喝采が起こるのはイイと思う(隣の卓に影響がなければ…)。
 テレビ観戦や中継であれば、つまりは実際の打ち手に直接的な影響を与えないのであれば「外部からの口出し」も「楽しいワイワイ」もどちらも第三者がゲームをより楽しむための方策であって、(ひとまずは)禁止する理由は見当たらない。
 さて、現実のフリー雀荘において、観戦と「外部からの口出し」、観戦と「楽しいワイワイ」を切り離すことができるか、という問題が残る。
 かなり困難ではあるが、できないことじゃない(と思いたい)。
 だって、自然に六枚切りが身に付いたじゃないか。「リーチ」って発声してから、牌を切れるようになったじゃないか。アタキ達、平成の多くの麻雀打ちは、たくさんのマナーを身に付けそれを実践できるようになったじゃないか。
「外部からの口出し」や「楽しいワイワイ」を慎むことが、アタキ達、平成の麻雀打ちにとって、それほど困難なことだとは思えない(と思いたい)。完璧に身に付けるには多少の時間はかかるかもしれないが…。

 さて今度は、観戦そのものについてだ。
 麻雀における観戦という行為にもいろいろとある。
  ・A:全体の進行だけを観戦する(誰の手牌も見ない)。
  ・B:ある打ち手の手牌を見ながら全体を観戦する。
  ・C:二人、もしくは全員の手牌を観戦する。
 さらに、本来ならば誰も知ることのできない、山に眠っている牌(次に誰かがツモる牌など)の情報を得た上で全体を観戦する、なども考えられる(大昔のテレビ番組「イレブン麻雀」での後半の卓ではこうだった)が、今回は無視だ。

正確には「11PM(イレブンピーエム)」という番組の中の「11マージャン」というコーナーでの話だ。
先に初級者四人が半荘を戦い、次に上級者四人が、初級者卓とまったく同じ配牌、同じツモ山で戦うという企画だった。 番組スタッフは後半戦のために山を積むのはさぞ大変だったろう。
番組の途中から、古川凱章の提言によって、先に上級者が囲み、後で初級者が囲むというルールに変更された。 初級者卓を先に放送する、という部分は変わらなかった。
実際の戦いで、上級者卓を先に行った理由(古川凱章が言い出し、司会の大橋巨泉も賛同した理由)は、「既に一度、誰かの手によって経験された配牌、ツモ牌では、ツモってくる時に入れるチカラ具合が微妙に違ってくる」みたいなものだった。
それを聞いたまだ十代だったアタキも、そしてたぶん日本中のほとんどの視聴者も、さすがプロと称される人は、目のつけ所が違うなぁと思ったし、また感心した(ような気がする)。

 Aの観戦形態が問題になることはあまりないだろう。
 打ち手にとっての負担が皆無であるとは断定できないかもしれないが、BやCと比べると微々たるものであるのは確かだ。
 BやCで問題になるのが「手牌の公開」だ。
  ・秘すべきモノを見られることへの抵抗感
      →ハダカを見られるのは恥ずかしい。
  ・誰にでもある失敗や欠点をさらけだすことへの抵抗感
      →肉体(体型)に自信がないので恥ずかしい。
  ・他人にとやかく言われることへの抵抗感
      →あいつのハダカは貧弱だ、なんて言われたくない。
      →あいつのハダカは立派だ、とも言われたくない。
 観戦する側は、絶対に見たいはずだから(そうでなければその場にいなければいい)、ここでは打ち手側の気持ち(=抵抗感)だけが問題となる。
 上に掲げた→に続くのは、麻雀とは無関係だけどアタキの正直な気持ちだ。
 この正直な気持ちを分析してみよう。

・ハダカを見られるのは恥ずかしい。
 見られるのに慣れてないからだろう。
 普通の社会生活ではそれを見せることは法律で禁止されており、法律なんて持ち出さなくとも、本来は隠しておくべきものだという社会通念、常識をアタキは既に獲得してしまっている。
 さらにアタキを取り巻く環境、つまりはアタキの回りで生活しているほとんどすべての人が、自分のハダカを隠しているので、それと同じ行動を取ることは、とてもラクなことであり、他人と同じことをやるのに特別な理由は必要ない。
 法律で禁止されていず、また全員がハダカを隠すことのない生活に馴染んでしまったなら、たぶん、恥ずかしいという感情は持たないに違いない。
 あ、アタキはよくサウナに行くのを思い出した。
 いつもいつも、ハダカを見られるのが恥ずかしいわけではないのだ。そうすることが普通の環境では、恥ずかしいなんて思わないのだ。
 逆に、服を着てサウナに入るなんて、(恥ずかしいどころか)オカシイと思われてしまいそうだ。

・肉体(体型)に自信がないので恥ずかしい。
 誰だってある程度の年令になれば、自分の肉体に自信を持ち続けるなんてできないことだろうと思う。しかし、アタキの場合は若い頃から自信がなかった(過去形なのが、さらに寂しい)。
 これは、ただたんにハダカを見られるのが恥ずかしいという気持ちとは別で、他人と比べて明らかに劣っている自分を見られるのが恥ずかしいという気持ちなのだ。
 他人と比べて、というのは、重要である。
 アタキ自身に、他者と自分とを比較できるだけの能力が備わったことをも意味している。そして比較の結果、他人に知られたくないという思いが、都合がよいことに普通は知られることが少ないという現実とうまく相まった、なんて感じだ。
 本当は自分が思っているほどに劣っているわけではないのかしれない。それよりも、他人がそれほどアタキの肉体に興味を寄せているわけではない、ということに早く気付くべきだったろう。うん、自意識過剰である。
 もしかすると、自信があれば、あるいは自分を客観視できなければ、あるいはそんなことを大して気にとめなければ、恥ずかしいなんてことは思わなかっただろう。

・あいつのハダカは貧弱だ、なんて言われたくない。
・あいつのハダカは立派だ、とも言われたくない。
 言論の自由は尊重されてしかるべきだが、こんなことを言われるのはプライバシーの侵害であり、侮辱である。
 口にした方にそんな意識はなくとも、それが犯罪として成立するか否かは被害を被った側の勝手である。ほめるつもりで言ったことでも、言われた方の受け止め方でまったく逆の意味になることもあるのだ。
 ましてこちらが普段からコンプレックスを抱いているハダカについて言及するなんて、まったく失礼なことだ。
 口にするのが許されるわけではないのは当然だが、もしもアタキがコンプレックスを抱いてなかったら、そんなに嫌なことではないのかもしれない。

 話は全然、脱線はしてない。「ハダカ」や「肉体」という言葉を、「手牌や手順」や「何切るの選択」に置き換えてほしい。
 そもそも、手牌は公開すべきものじゃない、という意見があるのは知っている。
 アタキは公開すべきものであると言い切れる自信までは、この行を書いている現在(笑)、持っていないのだけれど、公開すべきものじゃない相手が、相対している敵(一緒に囲んでいる他の三人)に対してだけである、とは信じている。 敵に対して手牌を公開するなんて、麻雀であってはならないことだけど、後ろで観戦している人々にも公開すべきではない、という論理はないはずだ。
 自分の持っている情報を隠しておかなければならないのは、同卓についている三人についてだけだ。
 さて、ここで新たな問題が浮上してきた。
 観戦というシステムが、他の三人に情報を漏らす可能性がある、という事実だ。
 ついさっき、いただいたメールでの回答によって、自分でも忘れていたかったのに思い出すことになってしまった、いわゆるイカサマ行為にもつながることだ(フィーバーぷらむさん、またまた情報、ありがとう)。

くぅ~っ、そろそろまとめに入ろうって考えてたら、観戦システムに関する意見をフィーバーぷらむさんという、麻雀ページ制作者の仲間から貰った。 アーケードでの対戦ゲームについてのオーソリティである彼は、麻雀をゲームとして捉えた場合にアタキとはかなり違ったスタンスにいるようだ。
イカサマ、イカサマ、…本当に忘れてしまってたゼイ。

 現実のフリー雀荘で実際にイカサマ(この場合には、観戦者がある打ち手の手牌に関する情報を別の打ち手に報せる行為)が行われているのかどうかはドーデモイイことであって、うん、あんまり話題にはしたくないし、しかし、そのような行為が起きる可能性が観戦することによって生まれる、というのは取りざたしてもイイだろう。
 逆に言えば、観戦を禁止することは、そのようなことを防止する目的を持っているわけだ。
 イカサマでなくとも、観戦者の顔色/表情によって、何らかの情報が敵に漏れることはあるかもしれない。
  ・国士無双風味の捨て牌の後ろにいる観戦者の瞳孔が開いた。
  ・それまでお喋りを続けていた観戦者が急に黙りこくった。
  ・ある観戦者がしきりに河と両隣りの手牌とを確認している。
  ・リーチ宣言した打ち手の後ろの観戦者がのけぞった。
 情報の精度は信頼するには程遠いものだが、ここで重要なのは、そういった情報が提供される、という一点についてだ。
 観戦者がいることにより、卓外の情報までもが戦略に微妙な影響を与える。打ち手の側にしたら、普通なら無視してしまう些細な動きも、観戦者がいることによって大きな意味を感ぜずにはいられない。
 情報を探り会うという側面を持っている麻雀において、観戦者の存在は小さなサインを増幅させる効果を持っているのだ。
 それが、ある打ち手にとって有利なことであれ不利なことであれ、よけいなことであるのは間違いない。
 とても困った。
 予定していた結論に辿り着きにくくなって困ってしまった(笑)。

 自分が育ってきた環境こそが普通なんだと勝手に解釈してしまったアタキは、ここで、観戦システムのあるべき姿を提示することにする。
「手牌を第三者に見られることは恥ずかしいことではない」
 ここはヌーディストクラブだ。
「失敗や手順ミスを見られたって恥ずかしくなんかない」
 それは失敗ではないかもしれないし、自分が思うほど他人はあなたのことを気にはしていない。
「他人と違うことは独自性の表れであって、他人の知ったこっちゃない」
 コンプレックスを持つことはなく、それは貴重なオリジナリティである。
「観戦者は打ち手に表情を読まれてはならない」
もしくは「観戦者の顔が見えない所で麻雀しなければならない」
 仮面を付けて観戦する、というのは現実的な方策だ。
「観戦者は一切の口出しをしてはならない」
 打ち手に聞こえない所でならかまわない。陰口はOKだ。
「打ち手に聞こえるワイワイガヤガヤはやってはならない」
 ブラウン管の向こうでならかまわない。
 …いろいろと考えてみたけど、やっぱ、「観戦禁止」が簡単なような気がしてきた。
 …完全に完成した観戦システムの感染を望む。

最後まで真面目にやろうって思ってたのに、最後にオチャラケてしまった。
オチャラケたわりには結論も面白くない。
本当に言いたかったのは、「自分が育ってきた環境こそが普通なんだと勝手に解釈してしまった」という部分であって、この言葉を多くの麻雀打ちに捧げたい。
なんだか、気分がおさまらないので、この放言の続きは必ずある(とイイなぁ)。

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