麻雀打ちの頁/雀のお宿

観戦すること観戦されることは絶対的に素敵なことだ。そもそも観戦者のいない麻雀ははたして麻雀と呼べるのか。「感染する観戦」の続編。

公開

感染した観戦

感染した観戦

こっちが本音

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 麻雀観戦の話だ。
 アタキは観戦は断然マルだと思ってきた。麻雀において観戦は、するのもされるのも当たり前のことだと思ってきた。
 あるフリー雀荘で「観戦は禁止です」と初めて言われた時には、そんなの麻雀じゃナイ!とまで思った。少なくとも、フリー雀荘における楽しみの一つをはく奪されたような気分になった…。
 というわけで、前回の『感染する観戦』の続きだ。前のに目を通してないと、今回の話の中でワケワカメな部分が出てくるかもしれない。
 観戦の是非を真面目に考えてみる、なんて意気込んだわりには、さっぱりな結論だった前回の反省を踏まえて、今回は不真面目に考えてみることにする。
 こっちは得意だ。

 観戦の何がマズいんだろう。
 観戦するのは悪いことなのか。
 観戦されると困ったことでも起きるのかしら。
 ち、ち、違う。設問そのものが間違っている。
 麻雀というものは観戦者がいて初めて成立するものなので、観戦が悪いも何もそんなことを取りざたしたって始まらない。
「観戦なくして麻雀なし」コイズミでなくアタキの言葉だ。
 例えば、誰もいない深い森の中で一本の大木が倒れたとする。
 果たしてその時、大木が倒れる音はしたのだろうか。
 同様に、観戦者がいない卓というものがもしもあって、そこで麻雀が行われたとしても、本当にその麻雀は行われたと言えるだろうか。

 実際に、観戦者がいない場面でも行われる麻雀がある、ということは世間一般に広く知れ渡っていることの一つだ。
 しかし、そうして行われた麻雀を普通の麻雀(=ちゃんと観戦者がいる麻雀)と一緒にしてしまうのは、少し問題があるのではないだろうか。
 例えば、プロ野球で観戦者が一人もいない状況を考えてみるとわかりやすい。
 本当にそのような事態が起こっても、アタキの予想ではたぶん試合は行われると思うが、それはプロ野球というシステムを根底から覆してしまうような重大な事態であろう。
 スコアラーや審判は、観戦者とは呼べないので、その試合結果がごまかされるなんてことはないだろうから、たぶん、それも野球の試合であったと呼ぶことはできる。
 では、草野球ではどうだろう。
 観戦者がいない試合が、日本のどこかのグラウンドで早朝に行われている可能性は高い。
 ところが草野球の試合ではあっても、それはたまたま観戦者がいなかっただけのことで、観戦者を排除したいなんてゲームの当事者は思ってもいないはずである。観戦者を完全に排除したいとすれば、それは(草野球と言えども)普通の試合ではなく、秘密練習か特訓とかの延長にあるものだろうと想像される。
 たまたま、野球だけを取り上げたが、ゴルフだってテニスだって将棋だって似たようなものだ。
 ゴルフだってテニスだって将棋だって、観戦者がいないということはあるだろうが、それはその時たまたまいなかっただけの話であって、どちらかと言うと、観戦者がいることの方が普通なんである。

 自分が毎日やっている将棋には観戦者なんていない、という人もいるかもしれない。
 それは、あなたが毎日やっている相手が特定の人物で(例えば兄弟、会社の同僚など)で、二人が毎日将棋していることを回りの誰も知らないか、将棋そのものに興味のある人がいないか、あなた方のレベルがあまりに低いか、もしくはあなた方が観戦されるのを強く拒否しているか、のいずれかのはずだ。
 つまり、ゲームの当事者が強く拒否しない限りにおいては、回りにいる、そのゲームにいくらかの興味を抱いている人々は常に観戦者になる可能性を持っているとも言える。
 さて、麻雀の話である。
 アタキが何の断わりもなく、「麻雀」と言うからには、フリー雀荘における麻雀のことである。
 当事者である我々、麻雀打ちには観戦を強く拒否する理由は見当たらない(前回のいろんな話は忘れてくれ(笑))。
 フリー雀荘に出入りする人の多くは、麻雀に興味があるのである。少なくとも常識ある打ち手であれば、卓からあぶれてしまったそれらの人の観戦を強く拒否するなんてことはしてはならない。麻雀打ちである以前に、人として許されるべきことではなかろうと思われる。

 なんて、アタキの言ってることは実は「きれいごと」であるのは自分でも承知している。
 人は人として生まれてくるものではなく学習を通じて、人になるものである。麻雀打ちも麻雀打ちとしてこの世に生を受けるのではなく、麻雀打ちに成長するものなのだ。
 だから、まだ人として未完成な時期だってあるし、麻雀打ちとして不完全な時期があっても当然であって、そのような成長しきれていない麻雀打ち(と呼ぶこともおかしいのだが)にとっては、常識なんて通用しない。彼らに観戦がどうこうと諭すのは骨のいることでもある。
 複雑、混迷にして情報の溢れる現代には、いつまでたっても成長しきれない麻雀打ちが少なからず存在することが明らかになった。そのような、アダルトチルドレンに必要なことは、愛情なのか教育なのか試練なのか、今のアタキには手に負えない大きな問題である。
 ただ「きれいごと」ではあっても、その大事さを言い続けることしかできないのだ。
 もどかしい思いもある。

 観戦を拒否する理由なんて見つからないが、観戦がもたらす様々な効果、効能、効用はいくらでもあげることができる(何度も繰り返すけど、前回のいろんな話は忘れてくれ)。
 ・上級者の打ち筋を勉強できる。
 ・自分とは違う考えや癖を持った打ち手を参考にできる。
 麻雀の腕が上がることで、麻雀をより楽しめるようになるのは当たり前だ。それへの一番の近道が、自分よりも上級の打ち手を観察することだ。
 また、明らかに自分より上、とまではいかなくとも、他人の手筋を見ることは参考になることが多い。もし、参考にできなければ、別の打ち手の後ろで観戦すればいい。
 ・大局的な立場でゲームの進行を堪能できる。
 麻雀はそもそも面白いゲームではあるが、自分が実際に打たないことで、実際に打っている時とは別の面白さを味わうことができる。
 中でも、複数の打ち手の手牌を同時に見るなんてことは、自分で打っていないからこそできることであって、観戦のだいご味ともいえるだろう。
 ・待ち時間のヒマ潰しになる。
「近代麻雀」各誌も「プロ麻雀」も読んでしまって、「天」も「ナルミ」も「兎」も何度も読み返してしまった時に、どうやって待ち席でじっとしていろと言うのだ。
 観戦は簡単にできることだし、それをいつヤめても普通は誰にも文句は言われない。とても、お気軽にできることなのだ。

 観戦する方にばかりの利点を並べたが、される側にも多くのメリットがある。
 本当は、される側にメリットなんてなくとも、観戦する人たちが喜んでくれるならそれだけでもどうぞ観戦してください、と思うのが常識ある麻雀打ちであり、大人としての対応であるのは他者の弁を待つまでもないことだが、…。
 ・緊張感を持って手を進めることの助けになる。
 どのような牌姿とも一期一会の精神を持って、できる限り、自分で最善と思われる選択を繰り返してゆくことの積み重ねが、麻雀の本質である。また、そうすることが自分とともに、この卓を戦ってくれている他の三人への礼儀でもあろう。
 ところが現実はと言うと、ついついポカをやったり、暴牌を続けたりしてしまうもので、これは負けたっていくらかの金銭で済むさ、あるいは、どうせ今日の俺はツイていないから、などという手前勝手な気持ちが根っこにあるからかもしれない。
 ところが観戦者がいることで、そういった考えから自分を解放できることがある。いわば、観戦者の存在を、自分が理性的な選択することに利用できるわけで、アタキなどは実際に観戦者がいなくても「ここでこんな牌を切ったのでは、数時間後の自分が恥ずかしい思いをする」なんてことを考える。つまりは、未来の自分を観戦者に仕立てているのだ(少し、脚色あり(笑))。
 ・ポイントとなる局面を他者と共有することができる。
 キーとなる場面がある。後で、その局面を反すうすることを観戦者の記憶を動員することで容易にできるのだ。
 どんなゲームであれ、それが終わった後で、ある場面を反省、再評価することは、上達なんてことは抜きにしても楽しいものだ。ところが、こと麻雀においては、それが一方的な立場での「うたい」に終止することが多いので嫌われていることがよくあるけれども、アタキ的にはもっといっぱい感想戦が行われると素敵なのに、と思っている。
 ・自分の快心の打ち筋を見せびらかすことができる。
 どうだ、てな感じである。
 それも言葉で云々じゃなく、実際の打つ行為で第三者にアピールできるのだ。
 自信がないとなかなかこうは思えない、という意見は本末転倒している。こう思えるような麻雀ができるように我々麻雀打ちは切磋琢磨すべきだし、その努力は楽しいことだと信じている。
 他にもいろいろとあるのだけれど、オチャラケネタばかりなので書かない。

 観戦が禁止されるのは、「慣れと勘違いの(意識の)問題」「マナーの問題」「イカサマを防止するシステムの問題」の三つが理由ではあるが、もしもそれらが解決できれば、多大なメリットを麻雀打ちは得ることができる。
 あらゆるプロシステムが観戦を前提に構築されており、プロの世界を頂点としたゲームにおいては、アマチュアの世界であっても観戦が普通に行われているのだ、という事実、現実を麻雀打ちは忘れてしまっているのではないか。
 プロフェッショナルの存在はすべてのそうでない愛好者にとって目標であり夢であり、自分がもっと上手くなれる可能性、自分がもっと麻雀を楽しめる可能性が残されていることの具現化でもある。
 アタキはもっと上手くなりたい。
 もっと麻雀を楽しみたい。

はっ、最後にキーボードがスベってしまった(笑)。
不真面目に、ってつもりで書き始めたわりには、意外とまともなことも言ってるような気がする。
なかなか思い通りにはならんね。

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