麻雀打ちの頁/雀のお宿

麻雀の話題だけでつながった人々との別れ。福岡県福岡市城南区茶山の記憶。

公開

囲むだけでなく

囲むだけでなく

茶山

広告

 何度か引っ越しを繰り返してきた。
 二つの住所があったこともあったが、この十五年でちょうど十回目の引っ越しというのはあきらかに多い方だろう。
 どこへ行っても目覚めている間は自宅にいることよりも雀荘にいる方が長いので、見知らぬ土地に対する拒絶感みたいなものは自分が考えているほどはないのかもしれない。ただ麻雀さえできればという思いがあるのは確かだ。
 少しだけ寂しいのはようやく打ち解けて気のおけなくなった人々とのささやかな別れ。
 とりたてて別れというほどのことでもないのかもしれないが、辛いというよりはいくらか寂しい。そんな気持ちになる別れが、この街にもある。

 どんな地方でも少なくともそのあたりでは一番の繁華街と言われる場所にしか住んだことがないのは麻雀荘はもちろん、多くの飲食店や風俗店が近くにないと気が落ち着かない性格のせいだが、ここで私が借りた部屋は典型的な住宅街の中。ただ表稼業の事務所に歩いて数分の距離にあるという理由から。
 果たして三年間、予想以上に窮屈な日々を味わうことになった。打つために繁華街へ足をのばさない夜は、数軒しかない食事処を一定の間隔で巡回するしかない。
 坂の上の一膳飯屋の主人、リョーさんはいろんな話をしてくれた。

 リョーさんは、上場している中規模の甘味料精製会社の取締役を引退した後に調理師の専門学校に通って免許を取り、小さな飲食店を奥さんと二人きりで営んでいる。実際に調理するのはもっぱら奥さんの方で、リョーさんはコップ酒を片手に客の話相手をするのが唯一のお仕事だ。地元の情報誌に載った私の記事がきっかけで麻雀の話をするようになった。
 さとうきび工場を建設する用地の売買交渉に沖縄に滞在していた若い頃(まだドル紙幣が普通に使われていた時代)、停電の中で蝋燭を何本も立てて卓を囲み、朝気付いてみると四人全員の顔がススだらけになっていた話。
 ローマ法皇御用達の理髪師(リョーさんの高校時代からの友人)に連れられて行ったバチカンのホテルで前の晩から囲んでいた麻雀のせいで、すんでのところで法皇との約束の時間に友人の理髪師が遅刻しそうになった話。
 一月かけて九州を一周する営業出張の先々での接待麻雀で、途中で持ち金がなくなり会社から送金してもらって、終わって帰ってみると元の所持金に送金された分を足した額よりも財布の中味が多くなっており、宿泊費と交通費と食費を合わせた以上に勝った話。
 二十年もやっていながら全然上達しない妹夫婦とは今でも月に一回は定期的に囲んでいる話。そこで出た役満やチョンボの話。
 最近覚え始めた息子の嫁は「(麻雀の)スジがいい」のだが、彼女にはこれからマナーみたいなものを教えていきたいといった話。
 そしてもちろん
「いずれ囲みましょう」
 という話になるのだが、リョーさんとは囲む機会はなかった。だが実際に囲む以上に私はリョーさんとの麻雀を楽しんだような気がする。

 院長先生は外科病院の院長で、二年前の小さな手術をきっかけに知り合った。
 手術そのものは昔からかかっている別の総合病院でやったのだが、完治するまでの処理を住んでいる場所に一番近い外科病院を紹介してもらい、院長先生みずからが担当になったのだ。一月半の間、毎日通ううちにどちらからともなく麻雀の話になった。
 何人かいる医者の友人を通じて、院長先生の(その世界での)評判を耳にしたこともあったのだが、麻雀となれば関係ない。私の専門だ。
 院長先生が仲間内で囲む機会に人数が揃わない、あるいは誰かが遅れる時に私が呼び出された。事務長から会社に電話がかかってきたこともあった。
 場所はいつもこれも近くの神経科の病院の先生のお卓で、決まって出されるクッキーとクラシック音楽と模型のSLがいかにもの感じ。私はほぼ毎回勝ち続け、四か月程で声がかからなくなった。
 それからは暑中見舞いと年賀状だけの付き合いなのだが、こんなに近所に住んでいるのに一度も顔を合わせずに一年以上が過ぎた。この街を後にする私は院長先生とはもう一生、口を聞くことはないかもしれない。

 書道教室の先生は私が生まれて初めてまともにお付き合いいただいた芸術家だ。
 郷土出身の全国的に知られた書道家の弟子にあたり、書以外にも陶器を焼いたり絵画を嗜む。残念なことに美術的な作品を評価する目を持っていない私は、先生の書いた書画の値段を聞いてただただ恐れ入ることしかできないのだが、マックでその作品を加工して多くの複製を作った際の先生のいい加減な指示、かなりアバウトな私への要求を知っている身としては、なんとなく憧れていたゲイジツの世界を違う目で見ることができるようにもなったことに感謝している。
 麻雀大会の優勝者が持ち回るトロフィーに私のハンドルネームを入れていただく際に軽い気持ちでお願いしたのが切っ掛けで麻雀の話をするようになったのだが、そのような依頼が実はとんでもなく高額なものだというのは先生のお弟子さんの一人に後になって聞いたことで、もちろんその時の私は
「ありがとうございます」
 の一言で済ませた。
 こんな麻雀牌を持っているんだが、と古い牌セットを見せてもらったことがある。重箱のような直方体のケースに古い竹牌が納められたもので骨董市で見つけたらしい。麻雀研究家で世界でも屈指のグッズコレクター浅見氏にお尋ねしたら、軍人が使用していたものとの事。同じ形式で同じように古いけれど、もっと状態のよいものを浅見氏のコレクションの中に発見したことを先生に伝えたら少し残念そうな顔をしてた。
 本業ではない絵画の素晴らしさは素人の私でも少しだけ理解できる。いつか先生に一索の絵を描いてもらいたいと思っていたが、言い出せないまま書道教室のあるこの街を離れることになった。

 建築家のKさんは根っからのデザイナーで、彼の生活全体にその才能が溢れんばかりのキラキラとしたライフスタイルを送っている方だ。
 Kさんの奥さんの実家が私の事務所の近くにあり、不思議な縁で交流が始まった。
 Kさんが独立する前に勤めていた大手建設会社のビルの地下を改装して麻雀卓を社の厚生費で用意し、社内の人間がいつでも麻雀ができるようにしたところ、社員の評判があまりに良く、常に数卓が立つ状態になって終いにはとうとう地下の部分を独立させ一般の麻雀荘としてオープンさせた話。その雀荘は今でも営業を続けており、利益の一部は件の会社の福利厚生費になっているらしい。
 工事現場でヘルメット帽の人物が頭を下げている絵柄を看板にしたのはKさんが最初だが、大手クライアントが現場視察に来て以降、日本中の現場に広まったらしい。そのクライアントとの接待麻雀の席で国士無双が三回も出て、あの晩、国士無双があんなに出なければ、あの頭を下げた絵柄が日本中に広まることはなかっただろう。
 いつかKさんに一索の新しいデザインをお願いしたいと思っていたが、これも言い出せないまま時が過ぎた。

 勤めていた事務所は元々学習塾があった場所で、建物を居抜きの形で賃借しているので近所の方の何人かは私のことを勘違いして「先生」と呼ぶことがあって、こちらも毎回そうでないことを説明するのが面倒だったりするので、平気で先生と呼ばれて返事をしていた。
 昔からの友人が先生と呼ばれる私を見て
「ここで麻雀を教えたりしているのか」
 と聞いたことがある。笑って否定したが、そんなことだってできないことではなかった。

 もう麻雀抜きでは住んでいる場所さえも語れなくなった私が新しい土地に期待するのは見知らぬ麻雀荘と見知らぬ麻雀好きの人々との出逢いだけだ。
 その出逢いは、実際に囲む以上に麻雀の楽しさを堪能させてくれるものかもしれない。

ピックアップ頁