麻雀打ちの頁/雀のお宿

解体間近の古びたビルに取り残されたサンマ雀荘。

公開

橋の麓のビルの奥

橋の麓のビルの奥

別府橋

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「もっちゃん、これで七連勝ばい」
 メンバーのMさんに言われるまでもなく、私はそれを意識していた。
 今日スタートしてからの八回目の半荘で、七連勝。
 最初の半荘でのラッキーな浮きで乗れたし、体調も良い。後は卓が潰れないように、客が帰らないように祈るだけだ。今日という日が長く続けば続くほど、私は勝ちつづける。そんな日になりそうだ。
 このクラブは四人で行なうサンマ専門店で、出親が一回りすると(つまり四回の半荘で)場替えを行なうのだが、たまたま私が着いた二回の席は、東向きの席だった。
「さ、場替え、場替え」
 年齢の割に頭部の薄いカっちゃんが、つかみ取りの牌を用意した。
 卓のどこに座ろうと私の今日の気分の良さは失われそうもないが、他の三人全員が「好調席」を心から信じている場合、それが妙な自信につながり、それまで弱気だった選択を少し強くいくだけで、実際にはそれは戦法を変化させたわけだから「場」とは何の関係もないのだけれど、何らかの結果を生み出すことはよくあって、私が注意しなければいけないのは、そうした変化だった。
 幸いにも私がひいたのは「北」。
 一局目は抜け番なので、東の出親の変化をじっくりと観察することができる位置だった。
 これまでにこのクラブで負け続けた分、過去6、7回の負けを取り戻せるかもしれないと感じた。

 昔からあるその大きな橋は、周囲の地名が橋の名前そのものになったくらい、市内では知られた橋だった。
 橋の規模は大きいものの、その下を流れる川の水量は微々たるもので、今では川だけでなく、両岸から伸びた形の平地が橋の下に広がり、一般的な橋の役目は果たさずに、ただ通常の平地の上に立体道路の体裁を成している。
 橋の両脇にも別の道路が走り、その道路脇にはいくつものオフィスビルやマンションが立ち並び、そうした中でもひときわ古びたビルの、今にも立て替えられそうな風体の2階にそのクラブ「T」はあった。
 かつては多くのテナントが入っていただろうそのビル内で今でも営業を続けているのは、一階の中華料理屋とクラブTだけで、歯科医の表札やライブハウスの入口扉、大衆スナックの看板などが主人がいない分だけよけいにビルの屋内の雰囲気を暗いものにしていた。
 今のまま営業を続けていれば、近い将来、補償の対象になるのは明らかであり、TのオーナーSさんがそれを期待していることは誰の目にも明らかで、壊れかけた調子の悪い空調設備を新調しないのも、薄汚れた壁紙を張り替えないのも、すべてはいずれ訪れる解体作業を考慮してのことだった。
「あの店はまだあるんですか」
 別の雀荘を辞めたMさんから、最近Tで働き出したことを知らされて、私はそう聞いた。
 Tに顔を出したことはなかったが、大きな通りの一部である橋の脇に見えるクラブTの看板はよく目に付いた。
 興味がなかったわけではないのだが、その近くには別の行き付けのクラブがあり、近接した二軒のクラブに出入りすることには何のメリットもないどころか、無用なトラブルを引き起こす結果につながりかねないのでTを訪れることはしていなかったのだ。
 新たな働き場所に就いたMさんにしてみれば、新規の客をクラブに引き入れることは重要なことであり、私はMさんの求めに応じてTのドアを開いた。
 オーナーのSさんとは顔馴染だった。
 名前までは記憶していなかったが、かつてどこかの雀荘で、よく目にしていた顔だ。どこかは思い出せない。
 Sさんも私を覚えていたようだ。
「サンマもされる、ですか」
 初めての客に対してはいくらかぶしつけな質問だが、逆に気軽な関係を築きたいという思いがその言葉には隠されており、そうと知りながら私はその策略に乗ることにした。
「ええ、牌さえあれば、何でも」
 私にだって、できることなら緊張することなく麻雀を楽しみたいという思いはあるのだ。一緒に笑った。

 四人でやる二飜縛りのナシナシサンマ。
 七対子が一飜、チャンタ系役が全て一飜増しである以外はよくあるもので、30000 点持ちの 35000 点返し、沈みウマが、5/10/20というこの地方のサンマとしては比較的、おとなしいルールだ。
 赤牌は三と五に2枚ずつあって一飜増しだが、赤祝儀と裏祝儀(現物)は立直をかけて自摸った場合のみ、というこれもよくあるもの。
 不慣れなわけでも、特別に好きなルールでもない。
 私は何の気負いもなく卓に付き、勝った負けたを繰り返すことになった。
 このルールにおけるポイントは、放銃しないこと、その一点に尽きる。
 ところが二飜縛りという制限があるために、あえて愚形でも立直しなければいけない局面もあり、さらには祝儀の関係もあって複数の赤牌を有していれば門前で立直しなければトータルの勝ちは拾えない。
 放銃は避けたいが、愚形立直もヤムナシ。そうした部分がこのルールの妙だ。
 このルールでだけ毎日囲んでいる打ち手の半数以上は、七対子と混一色と飜牌を基本として手を進めるわけだが、私は初めて入るクラブでの常套手段(私にとっての常套手段)であるタンピンを基本として攻めた。
 大きな手に育つことはないが、先制できる手役であるし、何よりも無理な立直を避けることができるためいつでもオリに廻れる。じっと構えて大物を狙うのではなく、早く聴牌にこぎつければ立直で先制し、そうでなければひたすらオリ。他人が自摸和了りするか流局するのを待つ、という戦法だ。
 結果的にはこの戦法は思ったほどには成功しなかった。

 卓が潰れた明朝まで囲んでいたにもかかわらず、最初に訪れたクラブで負けたせいで、私は何日も置かずにまたTに顔を出した。
 Sさんは誰かのラス半コールが入る度に、常連客へ電話をかけた。
「Tです。どうですか。今、立ってますが」
 二度目のこの日、私以外のメンバーは次々に交替した。
 中には、私の顔を見知る人がいた。
 通常なら、そうした打ち手とは相性がイイのだが、私はなかなか勝てなかった。
 それから何度かTを訪れたが、私は勝てずに、他のクラブに出入りしていなかったこの頃の私の収支は、そのままTでの収支であり、それにより私が負けていることは明白だった。
 客のレベルがそれ程高いとは思えないのに、5回以上も通っているクラブでトータルの成績がマイナスなのはどうにも気分が悪く、そんなクラブは今までもあったが、これまでの常としてそうしたクラブには私はハマッてしまうわけで、そしてそれは今回もそうなってしまった。

 Tのメインはフリーサンマなのだが、学生向けのセット卓や、固定メンバーでの一飜ヨンマ卓が立つこともあった。
 サンマが立つまでヨンマに付き合うこともあったが、自分でも気持ちが集中できていないことがわかる。手牌をこぼしたり、ノーテンで立直をかけたりした。
 ある日、Sさんが宣言した。
「二飜縛りをやめて、これからサンマも通常の一飜でいこうと思う」
 二飜縛りから一飜に移行することで、考えられる問題点を、Mさんが私に聞いてきた。
 Sさん自身も含めて常連客の誰も、一飜でのサンマの経験があるわけはないのだ。Mさんは私の雀歴を知っていた。
 私がサンマの一飜縛りで経験のあるルールは三つだけだった。
 一つはサラリーマン時代に会社の同僚とやっていたヨンマをそのまま三人でやるだけのルール(当然、萬子は抜く)、そして大阪で経験した25000点持ちのドボンサンマ、もう一つは都城での一索を八枚入れての鳥撃ちサンマ。
 私はチャンタと七対子の飜数をヨンマ(通常のルール)に合わせることだけを提案した。たぶん、持ち点やウマについて、何らかの問題が起こることはないだろう。
「ルールでの問題は起きることはないですよ」
 喰い断だけでの和了を認めないことを条件にして、その日から一飜縛りのサンマクラブとなった。
 ナシナシがベースなので、副露しての断ヤオを採用しないのが理屈に適っているのだが、清一色と対々和だけには副露しても断ヤオとの複合が認められていた。これは二飜縛りルールではよく採用されており、その実サンマでは清一色と対々和にしか断ヤオは複合できないわけで、喰い断を認めようと認めまいと和了りの制限には何の影響もないからの話だ。ところが、一飜縛りとなると喰い断だけでの和了りを許すのか、という議論が成立するので、この点だけは明言しておくべきなのだった。
「一飜縛りにすることで、今、ヨンマをやってる人もこっちに入り易くなるでしょう」
 Sさんの言い分だった。

 一飜縛りになったその日の最初の半荘で、ラッキーな浮きを拾ってから、私は七連勝した。
 次の1クール(四半荘)では一回しかトップを取れなかったが、以降はずっと2回か3回はトップを取り続けた。
 客が入れ替わった。
 私は勝ち続けた。
 また抜ける客が出たため、別の客が来るまでSさんが繋ぐことになったが、私の勢いは止まらなかった。
 途中から入った客は皆、負けて抜ける結果となり、「一飜は面白くない」と誰もが口にした。
 Mさんも入ることになった。
 クラブのその日の売り上げも、Sさんの準備していた分も、すべてが私に集まった。
 私は頼まれたわけでもなく、Mさんにタネ銭を廻した。
 一飜縛りの半荘が始って24時間後には、私はそれまでTで負けていた分をすべて取り戻すことができた。
「明日からまた、二飜に戻したって構わないですよ」
 今、自分が勝っているのは、このルールに慣れているせいではなく、他の誰もがあまりに不慣れなままで卓に付き、従来の二飜の感覚のまま手を進めているからに過ぎないことは理解していた。
 何日かすれば、今日みたいな状況は訪れないだろうことは充分に肝に命じているつもりだった。

 ところが年に一度あるかないかの大勝を味わったせいで、その日から当分の間、私の感覚は麻痺した。半荘が始まる度に「勝ちのイメージ」の中でしか、麻雀が打てなくなった。
 東の一局で親ッパネを放銃しただけで、ドボンしてでも早く次の半荘に行きたくなった。
 自分がトップ状態のまま、オーラスまで局が進行するだけでイラついた。何故、誰もドボンしてないんだ。
 大勝した次の回もそこそこには浮いたが、その次からは勝ったり負けたりを繰り返した。
 以前のように負け続けることはなかったが、大勝ちすることもなかった。
 やがて私はTでの麻雀にあまり魅力を感じなくなった。
 私が住んでいる土地からは高速を使っても一時間以上かかる距離にあり、元々Mさんの顔を立てての無理な訪問ではあったので、短い期間に何度も顔を出すクラブではないのだ。
 往復の時間で半荘四回はこなせる。なんと無駄な時間を費やしてきたことか。

「麻雀で生活している方と思ってましたが」
 Tの常連客であるタクシー運転手の一言だが、彼には私のその日の負けが判っていない。いや、判っているからこそそう言葉にしたのか。
 もう充分だと思えた。
 そのクラブの常連と思しき全員と囲み、新たな発見は何もないだろうと思えた。
 それに、近所のもう一つのクラブへの義理(というのもおかしな話だが)みたいなこともあって、少しづつTに顔を出す間隔を延ばし、今では最後に訪れて一月以上が経とうとしている。
 何かのきっかけで、またルールが変わりでもしない限り、Tへ足が向くことはないかもしれない。
 少なくとも、ホームグラウンドには成り得なかった、という事実を確かめることができたことは収穫だった、そう思い込みたい自分がいた。

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