麻雀打ちの頁/雀のお宿

バンドマンであることと麻雀打ちであることの葛藤について。バンドマンとしての経験・スキル・考え方・モノの見方が麻雀打ちとしての生活や人生に及ぼす影響について。

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バンドマンの哀愁

バンドマンの哀愁

哀愁シリーズ第二弾

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彼が生まれて初めて自分の小遣いで買った楽器はエレキベースだった。
日頃から仲の良い何人かでロックバンドを結成する話がトントン拍子にまとまって、演奏の経験などない彼ではあったが、たまたま他のメンバーがベース以外のパートを希望したせいで、彼がその担当ということになった。
楽器なんて持っていないし、自由にできる金銭も限られていた彼に対して、ギターとボーカルを担当することになった友人が、使い古しのベースを彼に破格ともいえる金額で譲ってくれた。
ストラップとソフトケースを楽器店で購入した際に、読めもしないくせにビートルズやキャロルの楽譜を眺めていると、自分がいっぱしのミュージシャンになったような気がした。
彼のバンドマンとしての人生は、十五歳の春、勘違いから始まった。

最初はキャロルのコピーだった。
永ちゃんのコピーは簡単だった。
しかし彼がコピーしたのはベーシストとしての永ちゃんだけであり、ボーカルは別の担当がいたし、ましてその派手なステージパフォーマンスなんて真似しようとも思わなかった。 そのようなことを真似する、というところまで考えたこともなかったし、当時の彼には恥ずかしくてできることじゃない。
ディープパープルやレッドツェッペリンのコピーはキャロルよりもたいへんだったけど、十六連の箇所での手の抜き方を身に付けてからは、なんとかなった。
当時の高校生バンドが必ずレパートリーにしていた「ハイウェイスター」は、ギタリストのための曲であり、ベースなんて誰も聞いてなかった。 彼が演奏してて好きな曲は「スモークオンザワーター」で、前奏部分でギターの後から自分が音を重ねる箇所が、自分のパートを誇示できる唯一だったが、それだけでも彼には充分だった。
控え目なパートであることは自分の性格にも合っていると思った。
学園祭がその高校生バンドのはれの舞台であり、その他のメンバーがコンテストに応募しようと言った時にも彼だけは乗り気ではなかった。 自分がやっていることがそんなに特別なことだとは思えなかったし、人前で演奏することよりも、カセットテープレコーダーを聞きながらコピーしたり、それをメンバーと一緒に合わせることで充分に幸せだったのだ。
ロックンロールだぜい、エ~イ!なんて、彼の性分じゃなかった。 ドラッグ、セックス、社会をぶっ壊せ!なんて恥ずかしかった。
そしてベースを弾くことそれ自体がそんなに好きじゃないことにも当時の彼は気付いていた。 ただ、メンバーと一緒に演奏することが心地よかっただけなのだ。

フュージョン、あるいはクロスオーバーというジャンルが生まれた時期に、ベーシストにも脚光が浴びることになった。
チョッパーだとかチョッピングとは言わずに、彼はパーカッシブ奏法という言い方を好んだが、逆にこのムーブメントは彼をベースから遠ざける要因にもなった。
彼にはジャコパストリアスのコピーなんてできなかったのだ。
しかし、後から考えてみると、誰もアルディメオラみたいにギターは弾けなかったし、スティーブガッドのように叩けるドラマーなんていなかったのだから、彼が、自分がベースに向いていないと判断する材料にする必要はなかった。
ある時、それまで何の興味もなかったエルビスプレスリーのライブ盤を聞いて、彼はベーシストであることをやめた。
信じられないスピードの三十二連の中で、これがベースだと言わんばかりにメリハリの利いたランニングを耳にした時が、ほとんど持っていなかったはずの自信のかけらまでもが粉々に砕かれた瞬間だった。
彼はギターを弾くようになった。
彼はピアノも弾くようになった。
どちらもベースほどにもまともに演奏はできないけれど、ある程度のアマチュアバンドの中でなら、他人の邪魔をせずに持ち分をこなせるくらいの技術を彼は身に付けた。
彼は、パーカッションやストリングスもこなした。
知っている曲になら、三度でも五度でも瞬時にハーモニーを付けることができた。
ロックやポップス、夏のビアガーデンではハワイアンミュージック、ダンパではディスコ、年末にはクリスマスソングもこなし、彼は数多くのバンドにトラ(ゲストメンバー)として呼ばれるようになった。
音楽そのものも演奏することも元々大好きだったのだ。
彼は自分のことをバンドマンであると言った。
ベーシストでもギタリストでもピアニストでもなく、ただのバンドマンだ。 一つのことを極めることはできなかったけれども、数多くの楽器をこなせる自分に自信もついた。 バンドマンという響きもカッコよく思えた。

そんな彼がある時、いきなり麻雀打ちになってしまった。
麻雀打ちになった経緯にもいろいろとあるのだが、問題にすべきは、バンドマンが麻雀打ちになったそのことにつきる。 バンドマンといい麻雀打ちとはいっても、どちらも何がしかの金銭的な報酬があったにせよ、それだけで生活できるには程遠いのだが、そうでない数多くの人々と比べ、彼はバンドマンとしても麻雀打ちとしても経験が豊富だった。
麻雀打ちである彼にとって、バンドマンとして持っている技術を活かす場面は何もなかった。
ただ、呼ばれたらどんな曲にでも対応し、自分を目立たせることをしない習慣が身に付いていた彼だったので、麻雀と聞けばどんな場にでも駆け付けた。
ルールやレートなんて知ったことじゃない。 とにかく場が立てさえすれば何とかなるさ、というのが彼の思いだった。
百円だと勝手に思って適当に流していた半荘が精算時に千円だと知った時のゾッとする感覚は、キーが途中で転調するなんて打ち合わせもしていないのに、演奏しながら何とかそれに対応できた時の快感に近いものだった。
雰囲気の悪いフリー雀荘で自分以外の三人の誰もが十本の指が揃っていないと気付いた時の焦りは、前のコーラスまで、F→G→Cだったコード進行が、エンディングだけF→Aフラ→Cと移った時の気分に似ていた。
数多くのハウスルールがある麻雀は、コードにもリズムにもテンションがたくさん入った演奏に付き合うようなもので、そんな時にはなるべく音を出さない、つまり鳴かないリーチしないことで対応するしかないのだ。
バンドマンとして持っている演奏技術は何の役にも立たなかったが、トラとしての心構えと反射神経は、麻雀打ちとしても必要なものだったのだ。

彼が生来、際立った音楽的センスを持っていたとは思えないが、経験と学習によって身に付けたものがいくつかあって、その中でも「和声」に関する感覚と知識は、麻雀打ちとしての彼に強い影響を与えたようだ。
「和声」とは、心地よいと感じる、音の組み合わせのことである。 複数の音がある法則に従って同時に鳴る時に、人はそれを心地よいと感じたり、そうでないと感じたりし、かなり重大な生理的影響を与えることも珍しくないのだが、その理由は解明されていない。
麻雀打ちとしての彼は、「和声」に関する知識を持っていたバンドマンとしての彼のせいで、一四七のスジを「シーメジャーセブンスサスペンデッドフォース」、二五八のスジを「シーナインス」もしくは「シーオンディー」、三六九のスジを「ディーナインス」もしくは「ディーオンイー」と関連付けていた。
一三五というリャンカン面子を理由もなく大事にしたし、一三五七の形だと拡がりのある受けのように思う反面、それに九がくっつくと何とも中途半端な気分になったりした。
両面待ちの中で一番嫌いなのが、三四のターツで待つ二五受けで、これに六を持ってくれば喜び勇んでカンチャンの五待ちにして、赤ドラをツモりあがることもあった。
そして、少しずつ、麻雀打ちとしての彼がバンドマンとしての彼を時間的に凌駕するようになって、麻雀打ちとしての勝率が上がるようになったかわりに、バンドマンとしては使い物にならなくなった彼がいた。
二二二三や七七七八といった並びを気持ち良いと感じるようになっては、バンドマンとしては失格なのである。

最後の和声に関する心地よさの話は、まるっきりデタラメな話でもない。
本当に彼はそれに近いことを考えていた時期があるのだ。
数の組み合わせと音楽との相関については、ギリシャの時代から多くの人々の興味を喚起してきた。

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