麻雀打ちの頁/雀のお宿

表稼業の同僚達との麻雀で、緊張している自分がいた。高名な都市計画コンサルタント、O先生の思い出。

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作られた自然さを前に

作られた自然さを前に

湯布院

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 三人の腕を見切るのに、一時間もかからなかった。
 しかし、最初の半荘がトップでなかったせいで、私はあせっていた。
 場についている誰よりも私が一番緊張しているのかもしれない。ここで負けるわけにはいかない。いや、大きく勝たなければならないのだ。
 長く囲めるのならば私はもう少しラクに構えることもできるのだが、いつ突然、打ち切りになるのか判らないまま始まった卓なので、早い段階で、大きな勝ちをおさめなければならない。
 ほろ酔い気分の他の三人のにこやかな態度と比べると、私は餓鬼のようだった。早く勝ちのペースに乗って、この卓上の何もかもを支配してしまいたい欲望と、本当にうまく勝てるのだろうかという不安と、最初の半荘と同じく次もトップを取れないのではないかという思いが私をあせらせていた。

 O先生は、誰からも先生と呼ばれていた。
 本業は都市計画コンサルタントで、物書きで、大学の講師でもあったので、そう呼ぶのは自然なことで、先生の事務所に訪れる人の誰もがそう呼ぶので、私もそう呼ぶようになり、すると不思議なもので、O先生は私にとってもいつのまにか先生と呼ぶに相応しい人に思えてきた。
 麻雀しか能のない若造の私に向かって、色んな話をいつも熱く語ってくれるO先生の物の見方、考え方は確かに周囲の人々を惹き付けるに充分な力があり、それが実際にやってきた仕事上の実績に裏付けされているものだから、素直に感心してしまうのだ。
「街」や「環境」は専門だから当然のことだが、「恋愛」や「宗教」や「宇宙」や「ネット」について、辺り構わず誰にでも自分の考えを真直ぐに説く先生の魅力は、モノを語っても自分を語らない姿勢、私欲とはほど遠い生き方とも相通ずるのだろうななどと、私がいっぱしに考えるようになったのは、先生が亡くなって何年も経った後のことで、当時の私は先生と卓を早く囲みたいとそればかりをいつも思っていた。
 たまたま見かけた雑誌記事の中で、草柳大蔵がかつてテレビでO先生と対談した際に、先生のことを「街づくりの第一人者」と評したという事実を知り、その当時の先生の実績である、ある温泉街の街づくりについてこっそりと先生の本を読んで調べたこともある。今では日本中に知られるようになったその温泉街はかつてO先生が、何軒かの老舗旅館のオーナーと役所とを巻き込んだプロジェクトの成果なのだが、私が先生からそうした過去の業績について直に聞かされたことは一度もなく、そんなこともO先生の魅力の理由だったのかもしれない。
 先生が元気なまま、ある日突然亡くなってしまって五年近くになったが、久しぶりに先生のことを話題にしてくれる人がいた。

 私が今、表稼業で頻繁にお世話になっている建設コンサルタントの看板を掲げた会社の社長が、O先生のことを話し始めた。
 社長はO先生とは直接の面識は無かったらしいが、共通の知人がいて、そしてなぜかかつて私が先生の事務所に出入りしていたことも知っていた。これだから、悪い事はできない。
 でも本当は、先生が私の事務所に出入りすることの方が多かったんですよ、なんてことは言いづらいものだ。そんな余計なことは、亡くなった先生の思い出話の場には一番避けるべきことのようにも思われた。
 思い出すことで、O先生は私の中には生きている。
 そして時を同じくして、その会社の社員慰安旅行の計画が持ち上がり、それに私も誘われた。
 若い幹事役の社員が企画した旅行の目的地は、くだんの温泉街。
 その社員はO先生のことを知る由もない。

 街に着いた一日目の夕刻から宴会が始まり、その宴会が終わった後に、牌を摘もうという話が決まった。
 私が表稼業に関係する人と麻雀をすることはまずない。
 特別な理由や決意があるわけではないが、あまり楽しいとも思えないし、あえて言うなら麻雀を打つ自分を生(ナマ)で知られることに少しだけ抵抗もある。それでも、私自身がいつも麻雀を打っていることを隠しているわけではない。
 そして、こうして囲むことが決まったからには、私がそれを断る理由は見つからない。
 メンバーはすぐに決まった。私と社長と専務とG理事と協力会社のY氏。皆、私よりも年齢が上で、役職面でも当然上位の面々ではあるが、そんなこととは無関係な所に私の麻雀はある。
 この中の誰とも囲んだことはないが、私の腕は突出している筈であり、地力は比べるには及ばない。

 すぐに理解できた。
 社長は現役だがサンマ専門の打ち手だ。リャンシバサンマの打ち手に多く見られるように、手作りを大事にする反面、勝負への見切りも早い。
 この面子の中では、尤も警戒すべき相手だが、社長を警戒するのではなく、社長の大物手に他の誰かが放銃してしまうことを避けることができるか否かがポイントになりそうだ。
 Y氏は、かつて麻雀が、学生やサラリーマンの遊びの第一候補だった頃に、長い時間を費やしたであろうことを彷佛とさせる打ち手で、この世代に一番多く見受けられるタイプだ。現在のフリー雀荘で、このようなタイプを見ることは少ないが、私程度の人間が普通に打っていれば、彼が十の失敗をおかす間に聴牌することができるだろう。
 G理事は、昔、かなり打ちまくっていただろうことを誰にでも気付かせる程度の腕だ。手つきは鮮やかで、ある一線までは踏み込んだ経験があるのかもしれないが、実は私には一番御しやすいタイプでもあり、今まで彼のような人がいたからこそ、ある程度の成績が残せているという自負もあった。
 彼らの打ち筋も雀力も理解できたからといって、それがすぐに勝利に結びつくわけではない。
 彼らの雀力を把握できたからこそ、それなりの成績を残さなければいけないとも思った。
 間違いなく、他の誰よりも私は緊張しながら摸打を重ねた。

 一半荘目は、東の三局に、Y氏が社長のメンホン七対子ドラ2に放銃し、さらに社長が続けて親満をツモり和了った時点で、趨勢は決したが、私はプラスすることに照準を合わせた。
 Y氏をドボンさせないために、社長とG理事から点棒をかき集め、それをY氏に与え続けるという展開を考えたが、Y氏自身の頑張りもあって、私はただ社長からの直撃とツモ和了りを繰り返すだけで良かった。
 社長には及ばなかったがどうにかプラスで半荘を終えた。
 続いての半荘の途中からは、黙っていてもトップが取れるだろうことは予想できた。
 しかし、実際にその半荘が終わるまでは、一切の気のゆるみを自分に禁じた。
 G理事は私の打ち筋に何かを感じたわけでもないだろうが、その半荘を終えた時点で、専務と席を変わった。
 三回目の半荘では、伝説を作ろうと思った。
 たんなる思い出では終わらせない。伝説でなければいけないのだ。
 国士無双と四暗刻と大三元以外の役満を出すか、全員を一度にドボンさせてしまうか、とにかくそういった局面を作ろうと思ったが、結局は、普通に大きなトップを取っただけで終わった。
 さすがに、社長が
「次で終わりにしよう」
 と口にした。
 Y氏も専務も久しぶりに握った牌の感触を楽しむ以上に、私と囲むことにイヤ気がさしたのかもしれず、予想よりも早い時刻でのお開きコールにスグに賛成した。
 最後は何も考えなかった。普通にその手牌だけを進めながら打ち廻した。
 気付くと、社長と専務が同時にドボンした。
 最初の二着の半荘も含めて、トータルで 300 ポイントに迫る圧勝だった。

「プロはみんな、こんな感じか」
 聞いた社長は私の過去を知っている。
「いや、本当ならお客さんをもっと大事にするでしょう」
 そう、私にとって、今日一緒に囲んだ皆さんはお客さんではなく、稼業のパートナーであり、人生の先輩方なのだ。
 明日からまたいろんな事を教えていただかねばならない先達であり、そしていくらか親しみを持って接していきたい方々なのだ。
「いつもこんな風だと面白くないだろ」
 こんなことはそんなにあるわけはないのだが、もう一度同じ面子で戦っても私は圧勝するだろう自信があることは口にしなかった。

 たぶん、もう二度と彼らと囲むことはないだろう。
 囲んだことに後悔はしていないし、自分の一面をさらけだしたこともマルだと思えた。
 五年前、十年前の自分なら、少しは自己嫌悪を感じたかも知れないが、不思議なほどその感覚がない今の自分にとって、麻雀は趣味や特技のようなものでしかなくなっているのだろうと思う。
 そしてそれは決して悲しむべき事でもないし、卑下するようなことでもなく、ただ今の自分がそういうスタンスで麻雀と接している、その事実だけが受け入れるべき唯一のことであるように思えた。
 その温泉街に、O先生のことを記憶している人々と既に忘れてしまっている人々の両方が暮らしているのと同じような自然な感覚で、私の中の麻雀も静かなものに変容しつつある。

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