麻雀打ちの頁/雀のお宿

テレビのドキュメンタリー番組「老いてこそ麻雀」についてのレビュー。平均年齢 70 歳が毎日、個性と個性が四角い卓で火花を散らしている。

公開

老いてこそ麻雀

老いてこそ麻雀

テレビ番組

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日本全国にある(に違いない)一つの雀荘のかたち

 たんたんとした番組だった。
 高齢の先輩達が集まる小さな雀荘での何日間かを撮っただけのドキュメンタリーで、そこには直接的なメッセージや驚愕の事実などは存在しない。きっと、日本全国にいくつもあるであろう、客のほとんどが高齢者である麻雀荘の風景だった。

 番組内で紹介される客や、そこで起こった小さな事件/エピソードは、私自身が過去に遭遇した何人かの先輩達の人生とシンクロするものだった。
「60歳を超えて、このクラブでは若手の部類」「バスを乗り継いで一人でクラブへ」「一時の行方不明」「元、中学校の教諭」「先生と生徒」「牌を握ると元気になる」「接待麻雀とゴルフ三昧の昔」「入り口で一息、休憩」「店員への差し入れ」「口数の多い客への一言」「明るい挨拶で入ってくる寡婦」「いつもネクタイ姿」「毎日の昼食が同じメニュー」「麻雀のルールを覚えようとする従業員」「卓に向う姿勢」「曲った背中、細い腕」「倒牌する仕種」等々。
 どれも知っている。
 そんなこともあった、こんな人もいた。
 全員が私よりも、20歳も30歳も、あるいは50歳も(!)高齢の方々だった。
 この番組の中には、私の個人的な麻雀原風景があった。
 番組を観ながら、私の意識は遠いある時期にさかのぼっており、そこには若い頃の私が通いつめた一軒の麻雀クラブがあった。

あるクラブの想い出

 ずっと後になって知ったことだが、元々、そこはパチンコ屋だったらしい。
 たいして広くもない数坪の敷地の中で、客の全員が肩を寄せ合いながら、立ったままで(!)打っていたとのこと。
 出玉が枯れたり、機械の調子が悪くなると、高い所からそれを見張っている女性従業員が拡声器で店員にそれを知らせる。並べられたパチンコ台の裏のスペースに常時、待機している店員は狭い空間の中で煙草を吸ったり、時には食事をすることもあった。
 パチンコ屋のオーナーと若い女性従業員が恋仲になり、元の奥さんが出て行ったのと、そのパチンコ屋が閉店し、麻雀クラブに鞍替えしたのとどちらが先の話しだったかはもう誰の記憶にも残っていない。

 麻雀クラブとしては流行ったのだろう。多い時には、オーナーと新しい奥さん以外に、六人の従業員がいたと言う。
 時代はスポーツ麻雀(ブー麻雀)が全盛で、最高12卓がスポーツ卓として稼動した。
 毎日の売上はパチンコ屋時代の数倍になった。
 そのクラブの繁昌ぶりに触発されて、近所にはいくつもの麻雀クラブができた。中には、常連客が別のクラブを開店した。
 オーナーは地元に根ざした、いっぱしの商売人であったために、警察やそれとは別の筋との付き合いも大事にしていた。おかげで、大きなトラブルに見舞われることはなかった。
 時代は少しづつ変わっていった。
 フリー客の数が毎年、少なくなった。卓を減らし、セット客も大切な収入源になっていた。
 元々、スポーツ卓のレートとして2種類を採用していたのだが、低い方の1本に統一した。
 常連客の誰も、博打を望んでいなかったからだ。
 次々に同業者が店をたたんでいた中で、かろうじてこのクラブが生き残れたのは、スポーツ麻雀をずっと堅持し、ここでならいつでもスポーツ麻雀が打てることを多くの客が知っていたからだ。
 もう世の中には(少なくともその地方では)スポーツ麻雀をやる人間なんて数少なくなっていたのだ。

 郊外のマンモス大学に入学した私が、このクラブを知ったのは、多くの同窓生(ほとんどは浪人生)が通う予備校が近所だったせいだ。
 最初の内は四人が連れ立ってそのクラブへ行くこともあったが、いつ顔を出しても誰かがおり、必ず友人達との卓に入ることができたので、こんなに便利な所はなかった。たとえ誰もいなくとも、待っている内に人数は揃った。
 三日三晩、打ち続けたこともあった。そのクラブからバイトに行き、バイトが終わるとそこへ直行だった。
 椅子に座ったまま、睡眠を取った。カップ麺が主食だった。
 夏を過ぎたあたりから、なかなか卓が立たなくなっていった。
 3時間待って、誰も来ずに、そのまま帰ることもあった。
 何度かそんなことが続くうちに、しょっちゅう金銭代わりのカードのやり取りがされているフリー卓に目がいった。
 スポーツ麻雀との出逢いだった。

 そのクラブのフリー卓では、私は当然、一番若い客だった。
 スポーツルールを採用している別のクラブへ行くことがあり、どのクラブでも私より年下の客はいなかった。
 あるクラブのメンバーのアルバイトをしながらも、そのクラブに通い続けた。
 従業員とも他の常連客達とも親しくなった。
 社会人になっても定期的にそこへ打ちに出かけた。
 私より後に、その店に私よりも若い客が訪れることはなかった。20年間、ずっとそうだった。
 何か月ぶりに、クラブへ顔を出すと、いなくなった客の消息を聞かされることになる。ほとんどは亡くなってしまっているのだ。
 もしかするとフリー客の平均年齢が日本一高い雀荘なのではないか、とも思った(後で、もっと高い別の雀荘の存在を知った)。
 限られた数の常連客だけで成り立っているクラブで、その常連客が毎年、少しづつ死んでいく。
 私はここで麻雀を覚え、いくらかの楽しみや苦しさを経験したのだった。

麻雀の目的

 客の誰も博打をしているつもりはないので、純粋に麻雀を楽しむ場。
 もちろん、勝つのは嬉しいことだが、牌を握っていられることや、卓の側にいれることの方に幸福を感じる人もいた筈だ。
「疲れたので代走して」と若い私に頼んで(私はと言うとボランティア気分)、私の打牌をじっと後ろから覗いている人。
 僅かな年金だけで生活しており、今月は既に場代に一定金額を支払ったので囲むことができずに、毎日クラブにあらわれては他人の手牌を遠くから見ているだけの人。店も客とは言えない相手に、お茶や菓子を出す。そんな彼の楽しみは誰かのトイレ代走の時だ。
 毎日、夕方の決まった時刻に、迎えが来る方。
 ささいな口論に怒って席を立ったものの、どこにも行くあてがなく、空いている卓で新聞を拡げてしまう客。
 毎週土曜日の夜中に来店し、二人で朝まで囲んで帰る夫婦。
 普段は流暢な日本語をしゃべるのに、気に入らないことがあるとわざとカタコトになる台湾出身の方。
 四人全員は申し合わせたように、小さな手しか和了らずに、いつも南四局までいくスロー卓。
 麻雀よりも競艇の結果の方が気にかかる人や、短い小指を隠すためにハンカチをいつも巻いている人や、夏でも長袖のジャケットを絶対に脱がない人や、決まった時刻に店に電話がかかってくる人や、きつねうどんを毎日注文する人や、私の名前を十年以上間違って記憶している人や、牌を握ったまま救急車で連れられた人や、言うことがころころ変わる人や、目を真っ赤に腫らしたまま打ち続ける人や、わかっているくせにいつも点数の確認を私に頼む人や、西武ライオンズのことを「西鉄」ライオンズと言ってしまう人などがいた。
 皆んな、人生の先輩達で、私よりも長く麻雀に接してきた方々で、心から麻雀を愛していた人々だった。

 既に閉店して何年にもなるそのクラブのことを、この番組は思い出させてくれた。
 世間一般で言われている「麻雀ブーム」とは異なるカタチでのブームが、また訪れるのかもしれない。
 フリーの麻雀クラブという存在は、コミュニティを提供する場としてはかなり上質の部類に入るのではないだろうか。

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