女性目線の麻雀小説
恋愛小説でなく麻雀小説である。
本の表紙にも「麻雀小説」とある。
テンゴのフリー雀荘に通うミドルエイジの女性が語る、雀荘での出来事と自らの思いの短編集(3編)である。
それにしても、このタイトル「恋心はイーシャンテン」って何て秀逸なんだろう。
このタイトルでなかったら、アタキは読まなかったかもしれない。
実のところ、物語の中身と、このタイトルとは何の関係もない。そう、恋愛小説ではないのだ。
牌画が使われている。間違いなく麻雀小説(←シツコイ?)。
たぶん、麻雀が判らない読者には何のことだかさっぱりな物語だろう。
しかし、麻雀を知っていてもフリー雀荘に通ったことの無い打ち手には、主人公「増田さん(私)」の心情は理解出来ないかもしれない。
アタキは、主人公のような思考で麻雀を囲んだことはあまりないが、理解も共感もできる。
ストーリーそのものも「私」の思考も行動も、面白いとは思わなかったけれど(ごめん)、こんな風な打ち手がいて、こんなことを考えていることもあるのだろうなぁと思った。
そう、この物語は、フリー雀荘に通ったことのある打ち手だけを対象とした、とても間口の狭い麻雀小説なのだ。
この麻雀小説が読者に提供しているものは、「あるよね感覚」と「あるかもね感覚」。
それも、限定された読者に対してのみ...。
麻雀を打つ女性たち
最も著名な女麻雀打ちは、宇野千代だろうか。
彼女は遂に、麻雀についての(エッセイ以外の)文章を一切残すことなく逝かれたが、人生の希望とまで言わしめた麻雀の何に魅力を感じ、どんな希望を見出していたのだろう。
95歳を過ぎてなお、「人生も麻雀も何が起こるかわからないから楽しい」と言い放つマルチ才女は、この物語の「私」に共感することがあっただろうか。
鷺沢萠や栗本薫(中島梓)は、「私」の思いや行動を一笑に付すのかもしれない。
学生時代のボーイフレンドに麻雀を教わった「私」の、麻雀打ちとしてのキャリアのほとんどはテンゴのフリー雀荘でのそれであり、鷺沢や栗本の雀風とはまったく異なるような印象をアタキは勝手に抱いてしまう(何の根拠もないことだけど)。
漫画「まあじゃんほうろうき」の作者、西原理恵子が、泣かせるストーリテラーであるのはご承知の通り。
こと麻雀については、ハチャメチャな人格だけを表出させているけれども、そのチカラ強さを獲得する以前に味わったであろう数々の諦め、受け入れざるを得ない人の世の理不尽を正面に据えたまま麻雀を題材とした作品であれば、この物語とはまた違った女性目線の麻雀物語が生まれるのかもしれない。
「あるよね感覚」と「あるかもね感覚」
「誰かに差し込みたくなる」。
「この局は大人しく、オリに徹しようと思う」。
「だけど、自分の手が思った以上に育ってしまい、勝負に出る」。
以上は、「私」の思考で、アタキにとっての「あるよね感覚」である。
そんな事ぁない!って言い切る人は、たぶん、アタキよりも何倍も強い打ち手なのだろう。
それとは別に、
「青年に名前を呼ばれる」ことを心待ちにすることや、「笑顔を見る」ためだけに囲むことなんかは、「あるかもね感覚」である。
さすがに、「大人気ない自分に会いたくて」フリー雀荘に囲みに来る客は、創作だからだという気もするけれど。
大きな勝負があるわけでなく、いかさまや暴力とは無縁の、普通のどこにでもあるテンゴ雀荘での物語らしくない物語は、現代の童話と位置づけられるのかもしれない。