麻雀打ちの頁/雀のお宿

麻雀には神様がいることを前提として、競技性や文化性から将棋や囲碁と比較してみる。神様のゲームと仏様のゲームの相違点こそが、麻雀という競技の特異性なのだ。

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神様のゲーム

神様のゲーム

仏様には誰でもなれる、って…

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麻雀は囲碁や将棋とは違う。
囲碁や将棋は仏様のゲームなのに対して、麻雀は神様のゲームなのだ

今から三年も前にパソ通の会議室でこんなことを言った奴をアタキはよく知っている。 それは三年前のアタキ自身で、勿論、今のアタキとはかなり深い関係にある。 深い関係といっても、そういう意味じゃなくって、ただたんに同一人物であるに過ぎない。
…うん、なかなか調子が出ないので(笑)、本題に入ってしまおう。

将棋と麻雀との比較はいろんな場所でなされてきた。
社会的にそれなりのステータスを確立したと思われる将棋の世界に、多くの麻雀界の重鎮達は憧れたのだ。
知的な頭脳ゲームとして多くの愛好者を擁し、その頂点にはプロと呼ばれる人達がいる。 彼らプロ棋士は生活の基盤を対局料に置き、教室/各種イベント/メディアへの登場によって糧を得ている。
特筆すべきは『対局料』が収入の大きな部分を占めていることだ。 彼らは『将棋を指す』ことで食っている(連盟からの給与であろうと本質的にはそうだ)。 個々においてはマス媒体でのCM出演料や書籍等の著作料が非常に大きな収入源である場合もあろうが、多くのプロ棋士にとっては、プロゴルファーがゴルフすることで、野球選手が野球することで収入を得ているのと同じように、『将棋を指す』ことが、その生活の基盤なわけだ。
多くのアマチュア、善良な愛好者の存在を抜きにしてはどのようなプロシステムも存在しない。 向上心を持ったアマチュアが多数いる世界では、指導者/教育者/先達/先輩としての顔をプロと呼ばれる人達は持っているので、教室での講師料や高等な戦術書の著作料といった分野での収入も無視すべきではないが、これらはその存在意義からするとオマケ的な要素であるのが普通だ。
一般的には『将棋を指す』ことで優秀な成績をおさめているからこそ、オマケ的な部分でのオファーがある筈だし、そうではなく、多くの弟子を抱えている素晴らしい先生がいるとすれば、彼は棋士としてよりも、将棋教室の先生として立派なわけで、彼の存在も将棋界にとっては大事なことかもしれないが、彼がプロ棋士である必要はない。

『将棋を指す』ことを主たる活動として生活するためには圧倒的な力量が必要だ。
将棋を指す、そのこと事体は多くの人にできることであり、そしてかなり手軽なわけだ。 にも関わらず彼がプロであるのは、奨励会に所属していたからだとか、二十代の内に四段になったからというシステマチックな事柄以前に、おそらく彼は圧倒的に将棋が強いからだ。
圧倒的/絶対的な強さはどこから発生したものだろう。
天賦の才能があったことは間違い無いだろうが、そこには修練/努力/研鑽の時間があった。 修練の結果、彼は格下のアマチュアと百戦して百勝できる力量を不動のものにした。
そして彼がプロであり続ける以上、彼の修練は継続される必要のあるものだ。 彼は修練する度に強くなる。一歩ずつ、将棋マスターに近付いてゆく。
「もし、将棋に神様がいるとしても香落ちでなら勝てるかも知れない」
そう言った(当時の)名人には、将棋マスターの姿が見えていたのかもしれない。
だが彼は間違っている。将棋の世界には神様なんていやしないのだ。
将棋の世界にいるのは神様でなく、仏様なのだ。

プロという特別な存在を抜きにしても、修練すればする程、マスターに近付いてゆけるゲームは数多い。
と言うよりも、ほとんどのゲームはそうした類いのものだからこそ多くの人々が修練する。 あらゆるスポーツ競技、将棋や麻雀、調理や大工仕事、文章を書く、人前でのスピーチ、株式市場を読む、等々。 作曲や絵画や服飾のデザインなんかも、ある水準までの修練は有効な活動だろう。
結果としての成否が明確な活動のことを『勝負事』と呼び、その結果が出る過程を『ゲーム』と呼ぶわけだが、 この『ゲーム』のすべてに修練が有効かというと、実はそうでもない。
例えば『ジャンケン(アタキの地方ではジャイケンと言う)』ゲームにおける修練の成果なんて取るに足らないものだ。 いや、ジャンケンなんかに修練なんて意味があるのか。 それは修練と呼ぶべきでない活動ではないのか。
そう、ひとくちに修練と呼んではイケナイのだ。

ゲームプレーヤーには段階的な差異があることを思い出そう。

 ・カタギの衆・・何も知らない
 ・初心者・・・・規則は知っている
 ・上級者・・・・他のプレーヤーよりも明らかに勝率が高い
 ・マスター・・・全線全勝の完璧なプレーヤー

『初心者』とはルール違反を犯さない程度にはゲームを知っている者のことで、 『マスター』は一般的なゲームでは実在しない、という定義。
『初心者』と『上級者』との間に位置するのが『中級者』で、一般的なゲームでは競技人口の大半を占める存在だ。

この分類はゲーム評論家、草場純氏の考察を基にアタキが勝手に解釈し言い替えたものです。
氏の考察の本質はこの拙文の主旨とは全く別の所にあり、その分類定義だけを借用した。

ジャンケンの『カタギの衆』とは、グー/チョキ/パーの出し方もその意味も何が勝ちで何がアイコかも知らないプレーヤーだ。 ゴルフの『初心者』とは、グリーンのカップに向かって少ない打数でボールを入れれば良いということを知っておりそう努力するプレーヤーだ。
各レベルのプレーヤーが一つ上のレベルに上がる為には、何がしかの修練が必要となる。
しかし、ゲームによっても、またどのレベルでのシフトアップかによっても修練の大きさやその実効性は異なっているし、修練したからといって、どのゲームにおいても上のレベルにシフトできるかというとそうではない。 ジャンケンなんて『初心者』になるのは簡単だけども、そこから上に行くことはできないのが普通だ。
『初心者』に行き着くまでの修練の大きさは、オセロよりも連珠の方が大きい。 連珠よりも将棋の方が大きい、そして、将棋よりも麻雀の方が大きいのは明らか。
『上級者』までの修練の大きさにも色々あり、一般的には、このレベルに必要な修練は、『マスター』に近付くための修練と同質のモノであることがほとんどだ。
ところが、ところが、麻雀に限って言えば、『上級者』が『マスター』にシフトアップするための修練なんて存在しないのではないか。
いや、修練したとしてもその実効性は非常に少ないことは明らかだ。
相手の待ち牌が100%見えることなんて論外だし、もしそうだとしてもそれだけで勝てるわけではない。
三門張が単騎待ちに負けることなんてしょっちゅうの事だし、天和なんてーのにはどんな対処もできないのだ。
どんなに修練を積んでも、相手の配牌国士無双テンパイを阻止はできないのだ。

麻雀において、修練の実効性が薄い、つまりは上達しにくい(=常勝なんてあり得ない)のは何故だろう。
将棋と違って隠れた情報が多いからだろうか。偶然にデキル役があるからだろうか。 四人でやる競技だからだろうか。
どんな麻雀プロでも(短期的には)初心者に負ける可能性があるのは、ツキや流れのせいなのか。 いや、もし本当にそうならツキや流れを把握し、それに何らかの対処をするのが真の上級者ではないのか。

麻雀というゲームにおいて、マスターへの道がかたく閉ざされているのは、麻雀が神様のゲームだからなのだ。

世の中のほとんどのゲームは実は仏様のゲームである。
プレーヤーは修練を積めば積むだけ腕前が上がり、勝率を増すことができる。 これは、それらの多くのゲームのマスターが仏様だからこそ、そうなわけで、仏様には誰でも(厳しい修行さえ積めば)成れる可能性がある。
アタキの祖父や祖母は死んだだけで、仏様になってしまった。 つまり、仏様は人間の延長線にある存在なわけだ。
そもそもブッダさえも人間だったわけだから、悟りさえ開けば仏様になるのはそんなに困難なことじゃない。 あ、いや、その悟りを開くのが大変なんだろうけれども、日々の努力が酬われる可能性は否定できない。
だが、麻雀は神様のゲームなので、ちょっとやそっとの修行なんてやっても無駄な話だ。
我々、人間にデキルことと言ったら、ただ神様のお気にめすように、神様から嫌われないようにするしかない。
小手先のテクニックを弄して捨牌を演出するよりは、もっと素直に手を進めた方が、神様の意志に沿うかもしれない。 和了れた時には感謝し、和了れなくとも振り込まなかったことに感謝し、振り込んだ時にも高い点数でなかったことに感謝しよう。 ラスであっても感謝し、ブットンだって感謝しなければイケナイ。 こんなに楽しい時間が過ごせるのは、すべて麻雀の神様の思し召しなのだ。

仏様がいるのは曼陀羅の中で、将棋盤というのは実はあの曼陀羅をモチーフにしたテーブルなのだ。 神様がいるのは神殿だから、麻雀卓は神殿を模したものであることは明らか。
曼陀羅もそれなりにきらびやかで美しいのだけれど、神殿の豪華さには及びません。 いや、だから将棋がどうこうなんて言うのが主旨じゃないので怒らないでほしい。 アタキは将棋も大好きなわけで、麻雀を好きなのの20分の1くらいは将棋をとっても愛しているのだ。
誰にでも近付く可能性がある仏様がその頂点にいる将棋をはじめとした多くのゲームと、人間がどんなに努力しても到達できない高みにある神様が司っている麻雀というゲームを比較することさえ、麻雀の神様には失礼なことではないのか。

将棋を指す人々が『将棋指し』と呼ばれ、その中の一部が『真剣師』と称されていた暗黒の時代を今のような社会的にも健全な娯楽として認知されるまでにした、将棋連盟の偉大な努力には頭が下がる。
大衆バクチとしての将棋が影をひそめたのは個人的には悲しい面もあるが、トータルで考えると大成功。
そんな将棋の世界に倣って麻雀も、という思いには、一愛好者として大賛成なのだけど、将棋よりももっと多くの競技人口を抱え、しかも神様のゲームである麻雀を同じ土俵でシステム化することは、神様に失礼、じゃなくって、何だか無理のある話のようなそんな気もする。
だけどきっとある。
神様のゲームができること、神様のゲームだからこそ人々に与えることのできる夢。
将棋漫画よりも麻雀漫画の方が数多いし、将棋サイトよりも麻雀サイトの方が数多いし、毎晩ネットで囲まれる卓は(たぶん)将棋盤よりも多い筈。
だからきっとある。
こんなくだらない放言を最後まで読んでくれた君がいるんだから、答えはそんなに遠くないかもしれない。

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