麻雀打ちの頁/雀のお宿

麻雀の強さを測る基準(いわゆる雀力の測定)についての考察。一般に言われる雀力とはどのようなものか、またどうのようであるべきか。

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スズメのチカラ

スズメのチカラ

雀の力量はたいしたことはない

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カタギの衆にとってはチンプンカンプンな言葉を、アタキ達麻雀打ちはたくさん使っている。 普段使うことのない言葉なのにたまにその言葉を見たり聞いたりした時に、何の違和感も感じることなくスーっと入ってくる言葉というのがあって、その多くは、簡単な漢字一文字の前に「雀」が付いたものだ。
「雀力」なんて相当ヘンな言葉だけど、 Googleで 2000万件もヒットするくらい、麻雀打ちにとっては一般的な用語だ。
ブラウズしてみると「雀力の向上・アップ」「雀力ランキング」「雀力を判定する」といった使い方が目立つのだが、そもそもこの「雀力」って一体全体、何の事じゃ?というのが今回のテーマじゃ。
ほうら、久しぶりじゃけど、面白そうなテーマじゃろうが。うぉっほっほ。

そもそも、んな事を思いついたのは麻雀祭都で紹介されている雀団法人・日本麻雀検定協会(雀検)のその名もズバリ「雀力」についての基準を目にしたからだ。
アタキは正直言って、初めてこれを読んだ時に違和感を覚えた。
麻雀ハカセ浅見氏が考える雀力と、それまで何となく自分で考えていた雀力は少し、違うと思った。
何がどう違うのか、そもそもアタキが考えていた雀力とはどういったものなのか、チト深く考えてみようと思った。
雀検の目的は「純粋に雀力を検定」することであり、その根拠は「Q&A」に詳しく説明してある。 これを読むと、なーるほどぉ、というような気もしてくるし、ウチの[電戯]も宣伝されてて大変ありがたいことなのだが、最初に覚えた違和感の源を探ることはたぶん素敵なことの筈だ。
さて、どんな結論に辿り着くのやら、毎度のことながら自分でも楽しみじゃわい。うぉっほっほ。

まず、一般的な意味での定義から。
検索エンジンでの検索結果から、雀力というものは「向上でき」「アップすることもあり」「ランキング可能で」「よく判定される」ものだろうと推測できる。
もしかすると多くのサイトが雀力の本質を見誤って、間違った用法をしている可能性も無くはないが、そうであってもその多くの間違った用法を解き明かすことも面白そうな話なので、ここではそういうことにしておこう(笑)。
しかしながら成績や結果などとは違って、その根底にある力量を指す言葉なのだろうと思われる。 例えば、「料理の腕前」や「スピーチの上手さ」や「お金のやりくり上手」などほどアバウトではないけれど、「ゴルフのハンディ」や「囲碁将棋の段」などのようにゲームの成績から直接導かれる類いのものではないことは明白だ。
いや、成績がそのまま雀力の一部であっても構わないのだが、どうもそれだけではないという意見は多くの賛同を得られると思う。
これは、麻雀というゲームが常に強者が勝つとは限らないことに起因しているわけで、とは言え誰もが下手な奴よりは上手な打ち手の勝率が高いことを認知しているからに他ならない。 まぁ、長い目で見て勝率が低い打ち手の雀力を高い、とは誰も思わないだろうから当たり前のことでもある。
だけど、何だかうまい定義はできそうにないので、一般的な意味での定義、というのは却下だ。失敗。

もっと卑近に、アタキがこの人は雀力があるなと思う場面を想像してみることにする。 実は麻雀に関してアタキは相当にスレているので(←自慢半分、ヤケ半分)、初心者とは違う場面でそう思う筈だ。

マナーの良い奴、悪い奴に会った時。
マナーが良い打ち手に会うととても嬉しくなってきて、こっちも緊張するが、その打ち手を雀力が高いとは思わない。
だが、マナーが悪くともこいつの雀力は高いな、あるいはこいつはかなり打てるな、と思うことは(たまぁに)ある。
自分よりも点数計算が速い奴に会った時。
あっやられた、と思うことはあるが、特別にその打ち手を警戒しようとは思わない。
これは、その打ち手の雀力をアタキが認めていないからだと考えられる。
牌さばきがカッコいい奴に会った時。
うらやましいとは思うが、これもアタキの思う雀力とは大きくかけ離れている。
隣りの卓で連続してトップを取った奴に会った時。
アタキ自身は対戦していなくとも、隣りで「三連勝だ」とかの声が聞こえると、そいつのことは警戒する。
何故、自分の卓でないかと言うと、そんなことはさせないからだ(笑)、ではなくって、自分がカッカきているのでそいつの雀力がどうとか考える前に、次の半荘をどう打とうかと悩んでいるからだ。
大会で何度も優勝する奴に会った時。
どんな大会であれ、そうしたハレの舞台で何度も勝ちを修めることのできる打ち手については、アタキは無条件にその雀力を認める。
普段の成績がどうあれ、金銭のやり取りとは違う所で、多くの打ち手が名誉を賭けた大会で優勝する腕というものは賞賛に値する。

何だぁ、要は勝ちさえすれば、それで雀力があるってなことを、アタキは思ってるだけか。
そうだ、要は勝ちさえすれば、それで雀力があるってなことを、アタキは思ってるだけなのが、はっきりとした。 くわっ、何てツマらん結論だ。失敗。

ツマらん結論ではあるが、自分を信じて先へ進もう。
勝ちさえすれば、雀力があると(少なくともアタキは)言うわけだが、その「勝ち」とは何だ?である。
ある局に和了ることではないし、荘家で役満をモノにすることでもない。 「勝ち」とはトップを取ることである。
しかし、ただトップを取るだけなら初心者でも(明らかに雀力が低い打ち手でも)可能なことだと思える。
だから言い直そう。 「勝ち続ける」ことが必要なのだ。
だけどどんなに雀力があろうと(←おいおい、ここで使う言葉じゃネエぞ)一生、ずっと勝ち続ける(=トップを取り続ける)なんてことはあり得ないので、「どれくらい勝ち続ける」か、あるいは「どのように勝ち続けるか」、もしくは「誰と打って勝ち続けるか」、さらには「どんなルールで勝ち続けるか」、え~い止まらない「どんな体調の時に勝ち続けるか」、「どの雀荘で勝ち続けるか」、「何を食って勝ち続けるか」、「どこまで腹をへらせて勝ち続けるか」、「どんな季節に勝ち続けるか」、「どんな服装で勝ち続けるか」、「どんな曲がBGMの時に勝ち続けるか」、「倉木麻衣のCDがかかっていても勝ち続けるか」、「誰の結婚式の三次会で勝ち続けるか」、「勝ち続けるかをどこまで書き続けるか」みたいな判断が必要だろうと思える。
中でも「どれくらい(の期間)」に重きを置いて、その力を判断しようという基準はとても素直なものだ。
何故なら多くの麻雀打ちは、一生の内に麻雀を何度もやり、それは相当の期間をかけるもので、その期間という物指しは、どの麻雀打ちにもほぼ均等に利用できるものだからだ。 例えば「誰と」だとか「どんな服装で」という基準を全国の北は北海道から南は九州沖縄まで、もっと正確に言うと北は択捉島から南は沖ノ鳥島までの麻雀打ちすべてに当てはめることは困難なことだ。 東は南鳥島から西は与那国島までの麻雀打ちについても同様である。
というわけで、雀力とは「どれくらいの期間、勝ち続けるか」によって定義できることが証明された(ことにしよう)。

「勝ち続ける」と言ったって、連続トップのことじゃない。
いや、別にそう定義したってイイのだが、連続トップなんてたぶん20くらいが限界だと思われる(アタキの記録は8連勝と記憶しているが、実際にその20の数値には何の根拠もない)。
しかし、たかだか(笑)20連勝したくらいで、雀力を極めたことにはならんだろうし、例え過去に20連勝した奴でも、現在30連敗中なら、雀力が高いとは誰も思わんだろう(はっきりとは記憶していないが、あるルールでアタキは30連敗くらいの経験がある)。
特に連勝に限らんでも、トータルで(←わっ、またイイカゲンな言葉だ)トップの回数が多い奴、言い換えるとトップ率の高い打ち手については、その雀力を認めるのにアタキはやぶさかではないし、オランダ坂でもない。
いや、待て。
20回を超える連続トップを取ることが困難であっても、50回を超えて、マイナスにならないことは可能なことのような気がしてきた。 実はこれが「勝ち続ける」ってことじゃないのか。
アタキにはとても真似できないが、アタキの廻りには(特に絶好調とは言えない状況であっても)軽~く、20半荘マイナス無し、なんて打ち手はゴロゴロしている。
奴らはアタキよりも、たぶん、フォームのしっかりした打ち手であって、奴らとの殴り合いではアタキは負けるとは思っていないが、気付くとこちらの方が何倍も大きな傷を負っていた、という感じ方をさせる打ち手達だ。

と、ここまで考えて、雀力の要素として「トップ率」と「プラス率」は、アタキ自身の感覚として素直にうなずける基準であることが判明した。
これは先に掲げた「雀検」の5級クリア基準でもあり、おお、何だか嬉しい。
で、その「雀検」ではもう一つ「順位率」も雀力の指標とされている。
アタキ的にはこの順位について今まで意識したことはなく、トップ以外は負け(負けには大小があるけど…)という認識だ。
かつてプロ連盟に所属していた友人の一人がこの順位について何か熱くカタっていた記憶がある。
「連対率」とか言っていた。競馬用語らしいが、そんな考えもあるのかぁと軽く流して聞いていた。
まぁ、あまりピンとこない。というか、100半荘して100回とも2着の打ち手を、アタキは雀力があるとは思わない。 すごいとは思うが、それはアクロバティックなすごさか、そうでなければ「要領のよい打ち手」でトータルでは勝ち組なんだろうなぁと思うだけだ。

最初に「雀検」の基準を読んだ時に感じた違和感は、いったい何だったのだろうという感じだ。
長いスパンの中で一定以上の成績を残すことが「雀力」だという、当たり前の事柄に対して、強い抵抗感を覚えたのだろうと思える。
「雀力」という言葉の定義になってしまっては面白く無いので、もう少し、自分の腹の中を覗いてみよう。
アタキは、あるグループ内でしか囲まずに、常に勝者である打ち手のことをそんなに評価しない。
そのグループ内で絶対的強者であることと、雀力とは違うように思える。
自分が所属する団体のリングにしか上がらないレスラーよりも、他団体へ挑戦状を出したり、異種格闘技戦に臨むレスラーこそが強いと思う。
名人であるからには、街の碁会所でも完璧に勝てるはずだ。
アタキの思う真の強者は、知らない街の初めて入る雀荘のローカルルールでカッパぐことのできる奴だ。
そして、その真の強者には、ものすごい「雀力」がある、という結論を導きたい。何とか、そんな風な結論にしたい(笑)。
初対面の人間に敬遠されることのない付き合い方ができて、常連さんの癖を短時間で見抜き、特殊な役やウマに対応した和了りのできる打ち手の雀力こそを認めたい。 いや、認めてもらいたい(笑)。
それは「雀力」じゃなく、「コミュニケーション能力」とか「環境適応力」じゃないか、という意見はあるだろう。
いや、それも雀力に加えてもらいたい。
どのネット対戦ゲームでも上位に入る打ち手の持つ雀力こそが、真の雀力と呼べるものではないか、と思うのだ。
ルールも違うし、仕組みも違うし、そこに集まってくるプレイヤーの意識も違うし、…なんて言ってほしくない。
そんな、いろんなことが違っても、結果として優れた成績を残す打ち手の雀力こそが本物だ、と思うのだ。

ある限られたコミュニティの中で得られた結果は、そのコミュニティ内での限定された能力である可能性は否定できないだろう。
しかし、そのコミュニティ内で優れた成績を残すことのできる打ち手の中には、別のコミュニティでもそうした結果を得ることのできる打ち手がいる。
ネット対戦でも、赤ありフリー雀荘でも、団体主催の競技会でも毎回、上位の成績を残す打ち手がいるとしたら、 たぶん奴は、初めて経験するローカルルールでの戦いでも勝ち組に違いない。
たぶん奴は、大金のかかった非合法な場面でも勝つに違いない。
奴の持つ雀力は、ルールや対戦相手や場の状況に左右されることのない、本物の価値ある雀力なんだ、きっと。

ん~、ここまで書いてて、いったい、何を言いたいんだか、ワケワカメになってきた。
雀力とは何か、を追求するために書き始めたのに、自分が思う「本物の雀力」の意見を述べてる(押し付けてる)だけだ。
か~っ、困った。

アタキの思う真の雀力、本物の雀力は、最初に述べた「向上でき、アップすることもあり、ランキング可能で、よく判定されるもの」とは言えそうにない。
だから、アタキの思う真の雀力なんてーのは、実は、雀力ではない(笑)。
そう、アタキは間違っていた。
誰とでも、どんなルールでも、どこでも戦える力を雀力と呼ぶのは、ペケ、である。
でも、アタキの思う所を理解してくれる人は多いと想像する。
もしかすると賛同してくれる人もいるかもしれない。
だけどそんなチカラは雀力ではないので、新しい言い方が必要だ。
「麻雀力」。
ジャーン。
こう呼ぶことにしよう。

誰とでも、どんなルールでも、どこでも戦える力は、「麻雀力」の大切な要素だが、最重要項目とは言えまい。
麻雀力の最たるものは、誰よりも麻雀を楽しむことのできる能力である。
トップを取ることが楽しかったり、役満をテンパっている時のドキドキ感が楽しかったり、初心者の頃は麻雀に誘われることだけでも楽しかった。
次にツモる牌は何かな、と胸をときめかせていたあの頃の麻雀力を自分は持ち続けているだろうか。
…、自信ナシ。

最初のテーマはどこにいったー!

途中に出てきた、「どんな奴を強いと思うか」に関して、アタキの思いは昔から一貫している。
大会で優勝する以外には、「勝負しているのか降りているのかわからない奴」「他人の手牌を利用して安全牌を読む奴」「摸打リズムが常に一定の奴」「一発ツモが多い奴」だ。

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