麻雀打ちの頁/雀のお宿

いろんな土地のいろんな雀荘でいろんなルールでいろんな人達と打ってきた麻雀打ちの記録。どの街にもそれぞれの麻雀好きがいることを記憶にとどめて。

いろんな街の雀荘で

いろんな街の雀荘で

街の記憶、クラブでの記録、打ち手達との思い出

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初めてのテンゴ

知り合いのいないテンゴの店に入ったのはこれまで一度しかなく、そこは東風戦だったので、いわゆるテンゴフリーは初めてのことだ。
少し、居心地の悪さを感じている自分がいた。

Sさんとのこと

Sさんのクラブから私の自宅までは、福岡の中心市街を走り、「ここを通るのは何年ぶりだ」とSさんは言った。

千と千尋の湯屋のある街

その温泉宿は、いくつか存在するという「千と千尋の」の湯屋のモデルとなった建物であるらしく。

橋の麓のビルの奥

最初の半荘でのラッキーな浮きで乗れたし、体調も良い。 後は卓が潰れないように、客が帰らないように祈るだけだ。

ある終焉の経緯

私が人生の中でもっとも多くの場代を貢いできたクラブ「Y」は、創業28年目の秋に営業を停止した。

確かな鼓動

勝つことよりも、トップを取ることよりも、その面目を保てた事自体に満足している自分がいた。

作られた自然さを前に

三回目の半荘では、伝説を作ろうと思った。 たんなる思い出では終わらせない。伝説でなければいけないのだ。

ドリームつばめ

「発声は小さな声でお願いします」 一瞬、何のことだか判らなかったが、まだ許可されている営業時間内ではないことに思いあたった。

寂れてなんかない

鹿児島市内や北九州市内には数軒のスポーツ店が残っているとはいえかつての隆盛とは比べるべくもなく、九州全体でのスポーツ稼動卓は合計しても四十卓に満たないかもしれない。

真似できないモノ

雀荘経営を、たかが雀荘経営としてしか捉えていない経営態度が見え見えで、これだけの場代に見合うサービスとは何かなんて全然気にしていないのだ。

代表の名に恥じて

私が私である本当の空間がココには確かにある。 他所ではあまり見せないにこやかな自分がここにいるのに気付く。

アジア的な喧噪

大きな私鉄の駅を出て一番人通りが多そうなアーケード街に足が向かったのは、そのアーケード街だけが唯一の繁華街だったはずだという学生時代の記憶のせいで。

祝儀の本当の価値

このビルの二階のSに行くのを意識的に避けていたわけだが、せっかく来たのにこのまま帰るのもどうかと、しかたなく、本当にしかたなくSに入った。

Jポップの産地で

いつものように「お一人様でも」の看板を頼りに入った路地は、格安チケットの販売所と化粧品も扱う薬局とにはさまれた小さな入り口だった。

囲むだけでなく

どこへ行っても目覚めている間は自宅にいることよりも雀荘にいる方が長いので、見知らぬ土地に対する拒絶感みたいなものは自分が考えているほどはないのかもしれない。

不健康な麻雀との共存

二度目のメールには、クラブの住所と名前が書いてあった。 いつか新聞広告で目にしたことのある名前。低レートで安心の、といったイメージがあるので。

古きを訪ねて己を知る

「お名前は?」 マルエイトップを取った最初の半荘の後に聞かれて私が答えたのは、ハンドルネームの『百貫』ではなく本名の方だ。

三人というシステム

その店でサンマが立つことがあるのは知っていた。 どんなルールなのか興味がなかったわけではないのだが。

キャバレー跡の大型店

「M商事のHさんから、お電話です」 職員から電話が回ってきたが、M商事という名には憶えがな。

消えそうな灯りの下で

表の仕事で駅前に寄ったついでに少し歩いて、今では市内でも最も古くからある店の一つになったレストラン『ラ門』が一階にあるビルの地下の重い扉を押すと。

巷の年中行事を知る

「えべっさんに御詣りに一緒にどうです」 店長が手持ち無沙汰にしている私に声をかけてくれた。

みんなが西郷さん

卓に付いた途端に下家が「焼酎、くれ~」と声を上げた。 それを聞いてスグに対面と上家も。

アーケードを見下ろして

「赤いチップ二枚をこれに入れて下さい」マスターはガラスのコップを差し出した。 どこにでもあるプラスチック製の。

緩い坂道の二階

若い付き人の荒気た声を制するように初老の男は「いいから、いいから」と言い、出入り口の方に向かった。

取り残された街

若い頃の私は三人でやる麻雀のことを『サンマ』と呼ぶのだとばかり思っていた。 サンマは三人でやることもあるが。

八羽の鳥を討て

初めての半荘は、私と店長と三十代後半の遊び人風の男とで囲まれたが、『一索』が八枚入っているだけで。

灰の降る街

フリー雀荘と言っても小さな街だから数はしれたものだ。 引っ越して来て約三ヶ月、週末の度に。