何をどう書き留めるべきか、まだ迷ってはいるのだが、文章という形に残すことで何かがなくなるのを防ぐことができるかもしれない。
ただ、想い出を書き綴るだけしか今の私にはできないし、それだけで充分だという、いささか傲慢な思いが自分の中にあるのも否定できない。
初めて会ったのはどのクラブでだか忘れてしまった。
よく顔を合わせるようになったのは今はもう閉鎖してしまった地下雀荘のUだった。
深夜零時を回って顔を出す客は水商売か同業者かと思っていたら案の定、メンバーから「こちら、**クラブのマスター」と紹介された。
自分の店を閉めた後にこうして遊びにくるのだから相当に囲むのが好きなのだろう。そのSさんとは時々、Uで囲むようになった。
Sさんは物静かな打ち手だった。
麻雀についての印象はあまり無いが、勝ったり負けたりを繰り返し、トータルでは充分に場代を払っている普通のフリー客だったろう。
メンバーを生業としている知人から連絡が入った。
「今、勤めているクラブが**にあるので、近くに寄ったら顔を出してよ」
聞いた住所の側には既に行きつけと呼べるクラブがあったので少し躊躇ったが、連休の前日にその店の扉を押した。
そのクラブのオーナーがSさんだった。
客として来ていたクラブUでの印象よりもいくらか快活な雰囲気だが、それでもやはり静かな人なのだろう、新客である私のために立てられた卓に座ったのはオーナーであるSさん自身と、それまでソファーで仮眠を取っていたタクシー運転手のYさんだった。
通常でも三人でのサンマは息をつく間がなく、まして初めて訪れたクラブなのでもっと緊張してもおかしくないのだが、その日の私はすぐに場に馴染むことができた。SさんもYさんもおとなしい麻雀を打つ人だったためだろう。
隣に立っていたもう一つのサンマ卓と行き来しながら、この日は朝まで楽しく打ち続けた。
サンマ卓とは別に四人フリー卓や学生のセット卓も立っていた。
次の週からほぼ毎週末に私は、そのSさんのクラブに顔を出すようになった。
週末以外でも、表稼業の都合で、その街の近くにいる時にはそこでサンマを打つようになった。
有線放送が流れ続けていた。
Sさんの好みで、いつも演歌とアダルト歌謡の専門チャンネルだった。
演歌や二昔程前の歌謡曲に関するSさんの知識は豊富だった。
私自身も同世代の一般的な人間よりもそうした音楽についての造詣はいくらか深い方だろうと思っているのだが、Sさんの場合は少し違った。
ある曲の印象的なイントロが流れた時、客の一人がこの曲は何だったかなぁと言った。
私はすぐに「琴風のまわり道」だと答えたが、Sさんが口をはさんだ。
「いや、まわり道やけど、琴風じゃなかろう」
何をおっしゃる、「まわり道」は琴風の代表曲にして唯一のヒット曲、歌い手としての琴風の魅力をあます所なく発揮された戦後歌謡史に残る名曲なのだ。
「これは、たぶん、増位山の方やん」
おおおお~、確かに、声は増位山だった。
増位山太志郎(現在は三保ケ関親方)という人はいくつもの大ヒット曲を持っており、歌手としての技術に秀でているために他人の曲も上手にこなすのだが、「まわり道」の出だしを聞いただけで、「琴風じゃない」と断言できる人間がいるとは思わなかった。
私はSさんの博識に舌を巻いた。
後で聞いたら「増位山太志郎全集」を持っていると答えてくれた。
私は以前から「増位山は、日本のアーロンネヴィルだ」と思っているのだが、Sさんがもし、ネヴィルブラザーズを知っていたら「アーロンネヴィルこそが、ソウル界の増位山だ」と言ったかもしれない。
平日の昼間には、Sさんはいつもパチンコ屋にいた。表稼業の仕事をサボって、早目に卓に付こうと思い、彼の携帯を呼び出すときまってパチンコ屋の喧噪の中だった。
サンマの抜け番の際には、よくロト6の数字チェックをしていた。
私のために煙草の買い置きをそれまで以上に増やしたと聞いた。
Sさんは何度も食事を取った。と言っても、私のように太っているわけではなかった。
麻雀の出番がない時には、ソファーで横になっていた。
負けて手持ちが心細くなった時には、廻銭をしてくれたが、これは誰にでもそうしていたようだ。
別のクラブで若い客と囲んだ後で、そのクラブのオーナーから「彼はSさんの息子さん」と聞いた。
私がSさんの息子と、別のクラブで囲んだことはSさんには言わなかった。
ある時期から卓がなかなか立たなくなったらしい。
私が決まって顔を出す週末はそうでもないのだが、私の知らない平日に、それまで顔を出していた客の一部の足が遠のいたのだ。
いくつかの要因が重なった結果のようだった。
私自身も持病のせいで、何週か行けないことが続いた時には、頻繁にSさんから電話がかかった。
私の持病は歩行を困難にするもので、常連客の中でもかなり遠方から出てきていた私に、Sさんは「車で送迎するから」と何度も言ってくれた。
今年になって正月に顔を出した際には、あまり長く囲めなかったので、次の週末には私自身も体調を整えてたっぷりとそのクラブで遊んだ。
その卓が割れて、店を閉める段になった時、Sさんが私を自宅まで送ってくれることになった。
何度も送ってくれると聞いていたが、実際にSさんの車に乗るのは初めてだった。
Sさんのクラブから私の自宅までは、福岡の中心市街を走り、「ここを通るのは何年ぶりだ」とSさんは言った。
ほんの20分の距離でも中心市街に用のない人生もあるのだなぁ、と何となく思った。
木曜日の番に電話がかかった。私が、明日は何時に来ることができるか、の確認だ。
「仕事の都合で、明日は難しい。土曜日なら昼間からでも大丈夫だ」
私が言うと、Sさんは「了解」と返事した。
ところが翌日の仕事がうまくはかどり、夕刻には私の体が空いたので、クラブに行くことにした。
常連客の誰も顔を見せず、私とSさんとメンバーのMさんと近所に住むTさんとで囲むことになった。一卓しか立たなかった。
たぶん、私とTさんとは、このクラブの中で何度か大勝ちしたことのある数少ない客の中に入った。
この日の麻雀は楽しかった。
朝までずっと四人で囲み、全員に一定の波が来て、終わってみると誰も勝っていないという結果になった。
私は帰宅した後、Sさんも出ていき、住み込みのメンバーMさんとTさんはクラブの中で眠ったらしい。
その土曜日の深夜、日付では日曜日になった午前二時に、ある女性が目撃したのは、埠頭から猛スピードで海に突っ込む一台の車で、その車を運転していたのは持ち主であるSさんだった。
私がその事を知ったのは、月曜日の午後、別のクラブにいる時で、そのクラブのオーナーがSさんの息子から何やかやと相談を持ちかけられたらしい。
テレビでも新聞でも報道されたらしいが、私はそうした報道に縁がなかった。
いろんなことがあったし、まだ私の中で片が付いていないこともある。
だけど、あの日の麻雀は本当に楽しかったし、その楽しかった思い出はそのままSさんとの思い出でもある。
また一つ、気の置けないクラブがなくなった。