麻雀打ちの頁/雀のお宿

大牟田市内のテッペンを採用したテンゴ雀荘。

公開

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確かな鼓動

有明町

 卓に付いて三半荘目のオーラス。
 三着の私は跳満自摸でもトップには届かないと思ってたのだが、その実、唯一の浮き者であるトップが荘家であり、終わってみれば私の三連続トップで、後ろで待機していたナベちゃんと席を交代した。
 初めてのクラブ、変な期待をされて卓に付いたわけだが、一応の面目は保てた。
 勝つことよりも、トップを取ることよりも、そして偏狭な知識を振りかざして感心されることよりも、その面目を保てた事自体に満足している自分がいた。
 普通の麻雀の楽しみ方じゃないよな。
 自嘲している私とは違い、今日がフリーデビューのナベちゃんは多分まだ緊張しているのだが、その表情はいつもと変わらない喜怒哀楽に乏しいものだ。良く言えばクール、ポーカーフェイスともとれるその無表情の奥はかなりヘビイな状況だろう。自分で自分を制御できない程のナチュラル亜空間の中に彼は間違いなくいるはずだ。
 こんな時代も自分にはあったのかも知れないが、あまりに遠い昔のことで、簡単には思い起こせない。
 彼の闘牌を目にしながら、私は古い記憶の中を彷徨っていた。

 このサイトを立ち上げて四年以上になるが、たまに送られてくる感想メールのほとんどは熱いメッセージに溢れている。
 私自身がパソコン通信やウェブを通じて得ることのできた感動の一部をこうして世間に還元できていることを確認できるだけでなく、その感想メールに込められた熱い思いを共有できる自分が嬉しくもある。
 この[街荘]が「お気に」のK氏も、私にそうした素敵な気分を味わうことを許してくれるサイト常連の一人で、その彼からのメールの中に、ナシナシルール(=緩い完先ルール)が全盛の彼の地元で、アリアリのクラブをオープンさせたとの記述があった。
 彼の地元は、私が平日の昼間いる都市から、車で1時間もかからない距離にあり、機会があれば顔を合わせることがあるかもしれないとは思っていた。  年の始めの頃のことだ。

 何年か前に福岡県の最南の都市、大牟田市の「かるた資料館」に出向いたことがある。
 麻雀研究家の浅見氏、ポーカーズプレイヤー協会会長の江場氏をはじめ、福岡近郊に住む若い麻雀仲間達と一緒に、新設された資料館へ行き、当時の館長の饒舌な、公務員とは思えない程のツボを心得た(聞く者を虜にするようなうまい)説明を前にして、実は麻雀が、かるた・トランプ・タロット・花札などの一連のカードゲームと、そのルーツの深い部分で複雑な関わりを持っていることが理解できた。
 大牟田市が自ら「かるた発祥の地」と最初に言い切ってしまった根拠の薄実さにも驚いたが、麻雀のゲーム的側面にのみ焦点を当てた当時の出品物(この時の出品物の多くは、現在では千葉県の「麻雀博物館」で目にすることができる)の数々に心を奪われている自分を発見することもできた。
 この頃よく囲んでいた若者達のほとんどとは、今は連絡さえも途絶えている。
 行方の知れない者もいるし、逃亡生活を余儀なくされている者もいる。
 大牟田市は私にとって懐かしく、暖かい気持ちを呼び起こさせてくれるだけでなく、いくらかの痛みを伴わずには想起することのない街なのだが、K氏が開いたクラブは、そんな「かるた発祥の地」にあった。
 表家業の同僚、とは言っても年齢は二廻りも違うナベちゃんを運転手にして、出向くことにした。

 K氏からのメールにはクラブの名前フェローズと電話番号だけがあった。
 前日に「待ってます」とのメールを貰った。
 大牟田市へ向かう道は、表家業のオフィスの前の国道をひたすら南下するだけだ。
 市内へ入ったら繁華街へ向かい、電話番号を頼りに大方の場所の見当を付けるつもりでいた。
 ナベちゃんはフリー未経験者なので不安なことも多いだろうが、私はテンゴのクラブであるとの情報を得ていたので、心配することはないと言った。しかし、彼の本当の気持ち、何に対しての不安がどれくらい彼の気持ちを占領しているのは想像することさえ困難な程、今の私はすれてしまっている。
 初めて入るクラブとしては約半年ぶりなのだが何のときめきもない。何のためらいもなく、ただ、サイトへ感想メールをくれた方に会うのが楽しみなだけだ。
 公衆電話を見かけては電話帳を探した。
 電話帳を設置していない、あるいは取り外されてしまっている電話ボックスばかり。
 市内へ入って二十分近くたって、電話帳を見つけた。
 麻雀クラブの数は知れていた。
 目指す場所はスグに判った。
 近所で麻雀クラブがありそうな路地に見当を付けたが見つからなかった。私の勘も当てにはならない。
 人に聞き、国道沿いの大きな交差点のすぐ脇に、全総連のテンパイ君の旗が立っている。フェローズ。
 遅めの昼食を取り、ドアを開けた。K氏からのメールで勝手に私が抱いていたイメージとはほど遠い、明るく綺麗な店内だった。

 メンバーにルール説明を受ける。
 テンゴのアリアリ、一発や赤祝儀がある通常のルール。この2年間にオープンされた日本全国の麻雀クラブの標準とも言えるオーソドックスなルールをベースにしたもので、追加されている役は「七対子形の大車輪・小車輪」と「赤三」くらいか。
 特筆すべきは「テッペン」を採用していることだ。誰かの持ち点が一定の点数に達すると、その時点で半荘が終了するというルール。
 ブーマンからヒントを得て私が考案した規則が、こうしたテンゴのクラブにまで採用されている事実を前にすると不思議な気分になる。
 ナベちゃんには説明の大部分は理解できていないだろうし、私にすれば少し鬱陶しくもある。しかしこれは初めて入るクラブでのセレモニーの一部なのだ。何の問題もない。
 店内には様々なサービスについての張り紙と、今では見かけることの少なくなった役満の張り紙がある。
 出現した役満とその達成者の名前などは、都心部のクラブしか経験の無い若い打ち手には物珍しいものかもしれない。

四筒四筒六筒七筒七筒八筒八筒七萬八萬九萬六索七索八索 (ドラ西

 一局目が流局した後の東二局一本場、北家がリーチした途端に聴牌したが追い掛ける手じゃない。
 生牌だったドラの西を北家がツモ切り、四枚目の九索が見えた時点で追いかけリーチすると、一発で九筒を引き、裏が二枚持ちの七筒と、出来過ぎの結果となった。
 和了り連荘(荘家が聴牌でも流局)の規則では、トップ確率は50%といった展開か。後は局が進行する度に5%づつ、自分が和了る度に10%づつ、トップに近づいていく。
 自分が荘家の際に、安い点数を拾うことさえしなければ、つまりは親っかぶりさえしなければマルなわけで、この最初の半荘は何とか制することができた。
 脇に座っていたナベちゃんと変わり、彼が二半荘連続でラスを食らった後にまた交替。
 東パツで二連荘しテッペン(持ち点が 53000 点を超えた時点で終了)、三半荘目も何とか逆転トップで終わった後に、ようやく落ち着いた。

 テッペンが 53000 点なのは何故ですか。
 その中途半端な点数を不思議に思ったのでK氏に尋ねた。
 百貫さんのサイトでは、50000 点(開始持ち点の2倍)とあったんですが、それだと簡単に起こってしまうんですよ。
 確かに、東パツの親が満貫を二回和了れば終了、というのは、場代を徴収するクラブ側としては申し訳ないのかもしれない(一本場は 1500点)。私が仲間内で楽しむ際には、親満を二回もモノにすればそのトップは確定したも同然だろう、なんて考えがベースになっている。そう言えば、テッペンを取り入れた、私の地元のピンのクラブの本場は 300 点だ。
 赤牌が全部で6枚もあるせいか、その日の6時間の内に4回はテッペンがあった筈なので、この 53000 点は、バランスの良い設定なのかもしれない。
 テッペン候補者に和了られるくらいなら、他者への指し込みも仕方なしといった犠牲的精神(雀鬼会で言うところの「仕事」)を誰かが発揮し、結果としてそれとは関わりのない第三者にとって有利な展開を招くといった混沌とした関係性の中でこそ、テッペンの魅力が増すものなのだが、それをじっくりと味わうには、まだ何回もこの店に足を運ぶ必要がありそうだ。

 ルールだけでなく、クラブの全体のサービスが現在の形に落ち着くまでに、K氏が払った労力(研究や調査、試行錯誤、時には他地方への偵察等)は、私には簡単に想像が着いた。
 ただ、流行っているクラブのサービスを真似るのではなく、対象とする客層や地元の特異性を考慮しての結果なのだ。
 こうした若いクラブ経営者が、次の時代の麻雀文化の一端を担っていく。
 そしてそれを近くで体感できる自分が嬉しい。
 15年前には博多にはアリアリのクラブは存在しなかった。
 10年前の熊本にも、鹿児島にも大分にもなかったが、どこも今では、旧来のナシナシフリーを席捲する勢いで、アリアリルールが親しまれている。
 この「かるた発祥の地」に息づいた新しい鼓動は時代を先駆ける使命を持っているのかもしれない。
 K氏や、現在のフェローズの常連の方々が意識するしないに関わらず。