麻雀打ちの頁/雀のお宿

歴史のあるスポーツ雀荘に集う人々に囲まれた毎日。福岡県福岡市博多区千代町の記憶。

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巷の年中行事を知る

千代町

「えべっさんに御詣りに一緒にどうです」
 店長が手持ち無沙汰にしている私に声をかけてくれた。「えべっさん」とは恵比須様のこと、今夜は十日戎のそれも本恵比須の宵だ。
 この地方で恵比須神社といえば、東公園の中の神社であり、およそ博多、福岡のすべての商売人は昨日からの十日戎に繰出し、今年一年の商売繁盛と家内安全を祈願する。
 いろんな会社の経営者も、飲食店の親父も、中州のバースナックのオーナーも皆が御詣りをする。勿論、麻雀クラブだって例外ではない。
 ここ不二クラブは昭和三十年代の終わり頃から営業を続けている麻雀荘で、今ではほとんど残っていないスポーツ麻雀専門の数少ない生き残り雀荘だ。
 店長と一緒に外へ出ると粉雪が舞っていた。

 若い客だった私は、以前に
「ここで働いてくれないか」
 と相談を受けたことがある。
 不二クラブの近所にあった別のナシナシ雀荘でアルバイトしていた頃の話だ。
 雀荘でアルバイトをしながらも、店を開ける前も閉めた後もいくつかのクラブで麻雀三昧だった当時、この不二クラブにもよく顔を出していた。
 不二クラブはレートが低いスポーツ雀荘なので、暇つぶしにはもってこいの場所であり、スポーツ麻雀というこのルールもとても好きだったし、麻雀というゲームの本質的な技術もスポーツ麻雀を通して覚えた。
 麻雀の技術を支える選択肢には六つしかなく、それは「どの牌を切るか」「ここで鳴くべきか/見送るべきか」「槓すべきか」「九種倒牌すべきか」「テンパイ宣言すべきか」「立直すべきか」であり、この内の最初の三つはスポーツ麻雀を知らなければ、今の私の麻雀は全然違ったモノになっていた筈だ。だから強いとか弱いとか、そんなことはわからないけれど、とにかく私はスポーツ麻雀で育ったのだ。

 どこのスポーツ雀荘も総じて客の平均年令が高かった。
 昭和四十年代に訪れたブームは(少なくとも博多では)五十年代には下火になったようだ。初めて入るクラブのどこでも一番若い客だった私が、二十年経った今でも最年少であることからもこの土地でのスポーツ麻雀の衰退が伺いしれる。

 不二クラブでも多くのお年寄りが麻雀を楽しんでいる。
 四人の平均年令が七十歳を超える卓が立つこともあるし、五十歳代であればこの店では間違いなく若手なのだ。
 私がたまに顔を出すのは、麻雀を純粋に楽しむためというよりは、スポーツの感覚を忘れずにいたいという気持ちと、多くの人生の先輩達の笑顔を見るためだ。だから一度も囲まずに店を出ることなんてしょっちゅうのことだし、点数計算や和了りの禁則確認を教えてあげるなどのメンバーの代わりになったりするが、その日は一卓しか立ってなく、実際に囲んでいる人間よりも観戦者の人数の方が多く、店長もちょうど手が空いた頃合だった。

 十日恵比須神社は、歩いてゆける場所にある。
 寒い中、狭い参道を抜けて型通りの参拝をして福笹を買って、クラブで打ってるお客さんのために梅ケ枝餅(うめがえもち)を持って帰ると、客がやや増えててもう一卓立てた方が都合が良い状況になっていた。

「もっちゃん(私のこと)、打ってくれます?」
 別に打ちたいわけでも打ちたくないわけでもないのだが、入らなければ卓が立たないならば必ず入る。私の信条だ。
 久しぶりに囲んだ常連の皆さんは、昔と同じようにしっかりと打ってくれる。
 摸打も遅くない。仕掛けも素早い。差し込みも軽い。
 少し安心した。

 二時間で十半荘程戦って私の一人負け。他の三人はほとんどチャラで、ゲーム代を私一人が払った勘定だが楽しい麻雀だった。
 どんなに大きなレートの麻雀よりも、どんなにマナーに厳しい雀荘での麻雀よりも、全員イケイケのサンマよりも、やはり、このスポーツ麻雀が一番楽しい。
 他の麻雀の何倍も頭を使うし、他の麻雀の何倍も他人の手牌や点数状況を気にかける。
 私にとってスポーツ麻雀以外の麻雀は、広場の三角ベースでやる野球みたいなものだ。勿論、三角ベースでも楽しいのは勿論だが、その楽しさは硬球を使った通常の野球とは別物だ。
 かと言って、スポーツ麻雀が得意なわけではなく、ただ楽しいだけだ。
 どう打てば誰もが納得の行く結果になるのか、この手はどう仕上げるのが最高の展開なのか、和了ることや役を作ることの楽しさでなく、完全なトップをとるための工夫と努力が実った時の達成感。

「明日は鏡開きなので、ぜんざいを作りますが、明日もどうです?」
 店長が言った。
 テレビも新聞も見ない私は、雀荘で年中行事を確認する。