麻雀打ちの頁/雀のお宿

煙草の害を喚起する警句(パッケージ横に記載の吸い過ぎに注意)の本性を暴く。本当にそうか、そうなのか、だとしてもそんな言い方せんでも…。ヘビスモなアタキのささやかな抵抗です。

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許煙、好煙、愛煙

あのコピー、なんか、ヤだ

あなたの健康を損なうおそれがありますので吸い過ぎに注意しましょう

 意味がワカラン。
 う~ん、本当はワカッてるんだけど、ワカりたくないアタキがここにいる。
 ここ(マックの前に座っている)だけでなく、あそこ(卓の前)にもいる。
 考えてみよう。

 まず「あなたの」というのは簡単だ。
 これはスグ後の「健康」にかかり、その対象は、この文を読んでいるアタキのことだ。 これが「穴他の」や「アッ、鉈の」や「ウッフ~ン、貴男の」や「ANA、田野」という意味でないことは、普通の日本人には明らかなことだろう。
 つまり「あなたの健康」というのは実は「アタキの健康」という意味である。真ん中に所有を表す「の」という助詞があるので、正確には「アタキが所有している健康」もしくは、「アタキが持っている健康」ということである。
 この段階で既にこのコピーはかなり高度な洗脳テクニックを使っていることがわかる。
 何の予断も挟ませることなく、一つの「健康」をテーマに取り、しかもそれを所有しているのが「アタキ」であることを明言することで、いかにも「アタキは健康である」ということを匂わせている。
 もし、アタキが風邪をこじらせていたり、食べ過ぎで胃潰瘍になっていたり、梅毒であったりする場合には「アタキは健康である」わけがないのだが、そんなことはおかまいなしだ。
 もうひとつの解釈としては「健康」というのが一つの状態を言うのではなく、ある状態を構成する為の要因に過ぎず、健康そのものは誰もが複数持っているものである、という前提で、「アタキが所有している健康」という使い方をしていることも考えられなくもない。 この場合には「太り過ぎという大きな病いにかかっているアタキでさえも、いくらかは所有しているであろう、いくばくかの健康」という意味である。

「…を損なうおそれがあり」の部分は、わかりやすく書くと「…を損なう怖れが有り」だ。
 わざわざ「損なう」としてあるのも一種のテクニックであり、意味だけからなら「損なう」でなく、「小さくする」「害する」「そうでなくす」「それとは反対の状態に近付ける」などを当てはめることも可能なのだが、「健康を損なう」という言い方が、現代の日本語で定型化されており誰の耳にも違和感をそれほどは与えない言い回しなのに便乗している。
 これはある意味で差別的な言い回しであり、不健康であることは、健康という健全な状態から大事な何かを無くした(つまり、損ねた)ことであることを意味している。 何の前置きもなく、健康=GOOD、不健康=損ねた状態という図式を使っている。
 その差別的表現に追い討ちをかけるように「怖れ」と言っている。
「健康を損なう怖れ」なんと偏見と差別意識に根ざした言い方だろう。 客観的な立場の良識ある成人ならば「健康でなくなる可能性」と言う筈だ。 可能性というのが固い表現と感じるのなら「健康でなくなるかもしれない」と言い換えてもいい。
 その可能性が「ありますので」とは、またしても強い断定の言葉であり、今の二十歳代の若者だったら「あるかもしれませんので」「あるような気がするので」「あると思いますので」みたいに、あやふやな責任を問われないような言い方になるのがトレンドのような気がするように思うのだが、そうではなく、「ありますので」とのことだから、きっと「ある」のだろう。
 ところが「ある」と断定しているのは「怖れ(=可能性)」に過ぎないので、これは実はあやふやであることを断定しているだけだ。 怖れるには足りない。

「あなたの健康を損なうおそれがありますので」の「ので」は、それ以前に何らかの理由が証明された時に使う接続助詞なのだが、ここで述べられた理由は、「アタキが所有している(であろう)健康を、そうでなくす可能性がある」ということだ。
 これが何の理由になるのかは後に続く文章で明らかになる筈だが、騙されてはいけない。
 自明の事実に「ので」を付けて、自分に都合の良い結論を結び付けるのは、詐欺師の常套手段だ。
「冬が近いので山が赤味を帯びてきた」「今日は父兄参観日なので母さんが化粧をしている」「彼はAB型なので変人である」「貴女を幸せにするので結婚してください」「腹が減ったのでモスバーガーへ行こう」「ハンドルが百貫雀なので太っている」
どれも詐欺師がよく使う論理であり、「ので」と言った途端に、「ので」以前の文章は肯定せざるを得ない状況が醸し出されることがよくわかるだろう。
 普通の人は「ので」以降の文章にいくらか注意を喚起されることはあっても、それ以前の文章を疑う訓練を受けていない筈であり、「モスバーガー」でなく「マックにしようヨ」とは言えても、「本当に腹が減っているのか、レジの子に合いたいだけじゃないのか」といった疑問は持たない。

「吸い過ぎに注意」というのは秀逸な文句だ。
「…に注意」というのは通常、「注意が必要ではあるけど、そうとは知られていない事象や事柄」の後に続けられて初めて意味を成すのだけれど、ここでは「吸い過ぎ」が、そのような注意が必要である事象として取り上げられている。 勿論、これも一種の差別的立場における暴言である。
 アタキならば「吸い過ぎに注意」ではなく、「出来もしない禁煙に注意」や「ダマ聴の二着目に注意」や「フィルターの方にライターの火を付けてしまうことに注意」や「水滴が残った灰皿に注意」したいところであり、前段の「健康を損なう怖れ」と対応させるならば、「出来もしない禁煙に注意」あたりが最もしっくりした表現ではなかろうか。
 吸い過ぎの定義の曖昧さも問題にしたいのだが、これは曖昧にすることによって各個人に判断を委ねたわけで、読み手の感じ方によってはどうとでもとれる。 このどうとでもとれる、という事実は、曖昧であること以上に罪深いものなのは言うまでもない。

「しましょう」
 マイリました、降参です。 何と無責任な、そのくせイイ子ぶった締めくくりであろう。
「手を上げて横断歩道を渡りましょう(だけど私は渡りません)」みたいに、回りの全員にはそう呼び掛けながら、自分の決意、あるいは行動予定については何の確約もしていないズルイ言い方だ。
 性善説に立てば「勿論、私もそうします」という意図をくみ取ることもできなくはないが、イザという時にそうしなくとも何の責任も問われることがない、かなり無責任な言い回しなのだ。 さらに言えば「しなさい」「してください」「しなければなりません」「することを強く望みます」などの言い方と比べると、そう言われた相手からの反論を暗に拒んでいる予防線の役目も「しましょう」には感じられる。

「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸い過ぎに注意しましょう」
 ワケはだいぶわかったけど、かなり胡散臭いコピーであることははっきりした。 だからと言って、この胡散臭い警句に従うのか無視するのか、あるいは心のどこかにとどめておいて、毎日の雀荘生活を送るのかはアタキ次第だ。

 死んだ祖母さんはいつも言っていた。
「おいしい、と思って食べるものは毒にはならない。 嫌いなモノを無理矢理食べても栄養にはならない」
 好き嫌いが激しかった孫のアタキをかばってくれての言葉なのだが、彼女は正しかったと今も思う。 麻雀しながらの煙草が害になるわけがない。 ニコチン、万歳!

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