麻雀打ちの頁/雀のお宿

トレーサーであることと麻雀打ちであることの葛藤について。トレーサーとしての経験・スキル・考え方・モノの見方が麻雀打ちとしての生活や人生に及ぼす影響について。

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トレーサーの哀愁

哀愁シリーズ第三弾

彼女は漫画のキャラクターを描くことが好きだった。
幼い頃は、漫画家に憧れ自分がそうなることを夢見てオリジナルの作品を書いたこともあったが、いつのまにかそうした情熱は薄れ、彼女はもっぱら既存の漫画に出てくるキャラクターを模写することが好きになっていた。 少女漫画よりも少年誌に掲載される漫画の方が好きだったので、彼女が描くものも自然とそれになった。
特に好きなジャンルの漫画は、少しエッチな描写のある青年コミックだった。 本格的なアダルト向けのハードな雑誌については避けていたが、軽いタッチの画風の中に出てくる性的なシーンのカットはよく真似た。
ある好きな作家がコンピュータを使ってキャラクターを描いていることを知った彼女は、自分もパソコンが欲しいと思った。 しかし、その作家が使っている機種のパソコンはとても高価だったために手に入れることをあきらめた。 コンピュータなんて触ったこともなかったので、別の機種を選択するなんてできなかったのだ。
それから半年ほどして就職した先で、彼女が就いた業務がトレーサーというものだった。
それがどんな仕事なのか正確なところは理解していなかったが、コンピュータを使うことと、面接の時に言った絵を描くのが趣味であることと何らかの関係があるらしいことは想像できた。
トレーサーとしての彼女の人生はこうして始まった。

コンクリートを打ちっぱなしのモダンな造りの自社ビルの二階にあるもっとも広いスペースには四十台近くの製図台と専用のテレビが整然と並んでおり、そのテレビが実はパソコンのモニタであることを後で聞かされたのは、その広いスペースの奥に背の高いパーティションで仕切られた一画でだった。
彼女が所属することになった部署であるその空間は、その中もまたいくらか背の低いパーティションで一人分のスペースのそれぞれが仕切られており、ただ広いだけの手前の「ロビー」(彼女の同僚がこう表現した)と比べると明らかに優遇されたもので、彼女はすぐにこの職場が気に入った。
同じ部署にいる女性社員の全員がツーピースのスーツを着ていることも気に入った原因の一つで、ロビーで働く人の多くはトレーナーにジーンズだったり、ワンピースの上にカーディガンをはおっていた。
彼女の仕事は、設計図面や手書きの地図をCADを使ってコンピュータに取り込むことだった。
いったんコンピュータに取り込んでしまえば、変更作業が簡単にできるし、別の図面を作る際にも応用しやすくなる。 ただの紙のままでは、ホワイトで消したり、コピーして切り貼りしたりしなければならないことが、モニタの中で手軽に行え、そしてその最終的な成果物もきれいな状態を維持できるのだ。
ロビーで行われている作業も基本的には同じ目的を持っていたが、ロビーでは実際の紙を製図板の上に貼り、その図面に描かれた線やその他の図形を一つずつマウスでたどりながらCADデータにしていく手法を採っていた。 それが、彼女の部署では、スキャナ、ベクタライザ、ポリゴン認識ソフト等を使うことで極力手作業の少ない方法を採っており、明らかにこちらの手法の方が効率的ではあるのだが、まだ現時点では社内全体の業務をそのルートで行うほどには、一つ一つの作業が標準化されているわけではなく、そうした業務の標準化およびマニュアル化を実現するための研究機関的な位置付けも、この部署にはあるのだった。
彼女はコンピュータについては無知だった。
しかし、彼女がやっている作業に必要な知識はコンピュータに関するそれではなく、ソフトウェアの使い方だけなのだ。 彼女は、すぐに様々なソフトウェアの使い方を身に付けた。
自分が理解しているのは仕事で使っているソフトについてだけであり、決してコンピュータそのものについて何かを判っているとは思わなかった程度には、彼女は聡明だった。
一度、「トラブル」が起こった時に電算技術部の社員が彼女のマシンの前で延々と呪文のようなタイピングを行っているのを目にして、コンピュータのことなんて自分には判りっこないと思った。 判る必要なんてないのだと割り切って、彼女は順調に仕事をこなしていった。

仕事を退屈だとは思わなかった。
手描きの様々な図面をCADデータとしてコンピュータ内に取り込む作業のほとんどは自動的に行われるのだが、残りの一部については、オペレータの判断と手作業(とはいってもコンピュータを使うことにはかわりない)が必要だった。 残りの一部を意味のあるデータとするためには、元の図面でその箇所が表現している意味を理解していなければならないし、既成のソフトウェアはまだ自動的にすべての図形の形状を認識できるほどのインテリジェンスを備えてはいなかったのだ。
彼女はこの作業が得意だった。
設計だとか測量だとか地図だとかルート探索だとかは、さっぱり理解できなかったが、その紙の上に表現された手描きの図形を瞬時に真似てCAD化することができた。 どんな複雑な形状であっても、漫画のキャラクターの表情の変化をあらわす一本のシワほどの困難さは感じられなかった。
その部署内で、彼女は「できる社員」になっていった。
そして念願の、あの作家が使っているパソコンを手に入れた。
会社で使っているのとは全然違うタイプのパソコンだったが、簡単に使いこなすことができた。
キャラクターを真似るだけでなく、身の回りにあるありとあらゆるものを彼女はそのパソコンを使ってトレースしていった。
彼女は職場だけでなく、自宅にいる時にもトレーサーであることをやめなかった。

彼女が身に付けたやり方は、少なくともその部署内では独自のものだった。
まずスキャニングする際に、多くの人は細心の注意を払って高い精度でのラスタライズを行うのだが、彼女は他の人々よりも低い精度で適当にラスタデータにしてしまう。 そうした方が、次のショートベクトル化(微少線分化)に要する時間が短くてすむのだ。
その後で通常なら歪みの補正という工程があるが、彼女はこれを行わない。
それから自動で、ポリゴン化や文字認識のソフトが走ることになるが、彼女は場合は元の精度が低いデータで作業を進めているのでそれらの結果は悲惨なもので、その悲惨な結果に対して歪み補正をかけるのが彼女流である。
以上の工程を経た場合に、一般的なやり方ならば全体の90%がCADデータとして完成することになり、彼女の場合の出来率は80%がいい所である。
ところが残りの、オペレータの手作業を介して仕上げるべき工程においては、他人が10%を完成するのも、彼女が20%を完成するのも同じ時間しかかからなかった。 時には、その最後の工程だけを考えても彼女の作業の方が早く仕上がることもあった。
彼女は、漫画のキャラクターを模写することでトレースのポイントを身に付けていたし、パソコンの扱いに関しても充分すぎるほど上達していたのだ。

そんな彼女がある時、いきなり麻雀打ちになってしまった。
麻雀打ちになった経緯にもいろいろとあるのだが、問題にすべきは、優秀なトレーサーが麻雀打ちになったそのことにつきる。 トレーサーといい麻雀打ちとはいっても、彼女が常にそのどちらかであるということではなく、一つは職業でありもう一つは趣味の世界での話だ。
トレーサーとしての彼女が持っている癖が、麻雀打ちとしての彼女に影響を及ぼすことが少なからずあった。
配牌を大雑把に捉えるのが彼女のやり方であり、序盤では細かいことに気を止めないのである。
大三元が見えるなぁと思うことはあっても早い巡目で仕掛けることはないし、この手はサンショクを狙おうだとか、ドラが二枚なので早くテンパイしてリーチをかけようなどとは絶対に思わない。 最初の内は、何となく端の方や字牌を切るだけだ。 なので、彼女はチャンタをあがったことはないし、国士無双なんて考えたこともない。
「好牌先打」なんてことも彼女はやらなかった。 必要そうな牌は中盤まで温存し、手をいっぱいに広げるのが彼女のやり方だった。
彼女のあがりは、ツモあがりが多かった。

誰よりも多くの危険(と思しき)牌を抱えて手を進める彼女ではあったが、他人に放銃することは極端に少なかった。
他者の捨て牌をいくつものパターンとして認識することで、イーシャンテンの手から必要とするグループ、つまり当たり牌の候補をかなりの確率で読むことができた。
彼女に「読む」という意識はなく、そのパターンでの捨て牌であれば、この二つのスジの牌が必要であることが多い、というだけのことである。 それらを論理的に研究してそういったことを知ったのではなく、キャラクターの表情の違いを観察するようにして自然に身に付いただけのことだった。
顔面の汗の水滴が、頬に描かれているのと、口元にあるのとでは全然違う状態をあらわすことと同じように、ある牌がどの位置で捨てられたかによる違いを彼女は理解していた。

自分の手牌を広く構えているにも関わらず、放銃が少ない麻雀打ちである彼女は、当然のように勝ち続けた。
そんな彼女ではあったが、一番簡単な役満である国士無双の経験がないことは少しだけコンプレックスでもあった。
彼女よりも後で麻雀を覚えた同僚が、彼女はいつも負けているにも関わらず、今まで何度も国士無双をあがった経験があるのだ。 イーシャンテンでのドキドキする感覚や、初めてテンパイした時の胸がつまるような思い、ロンと言って倒した後の達成感を、自分よりも明らかに腕の落ちる、この同僚から聞かされるたびに、一度くらいはそんな感じを味わいたいと思っている。
だけど、イーシャンテンにもならない内に、不必要な牌が他者の当たり牌である可能性を察知してしまう彼女自身であるために常にオリてしまう。 当たりであるかも知れない牌を捨てるなんて彼女にはできないのだ。

彼女が国士無双を達成するためには他の三人の手が遅いか、遅いと彼女が判断するような捨て牌の時に、国士無双をテンパイした場合にだけだろうと思われる。
中途半端な形で彼女の紹介が終わってしまったが、哀愁ってほどのことはない。