絶対雀感
不思議な言葉だ。
不完全情報ゲームである麻雀競技において「絶対」とは何だろう。
「雀感(じゃんかん)」なんて言葉もヘンだし、「麻雀観」や「打牌センス」や「対局感覚」などとは違うのだろうか。
そもそも絶対的なものなんてあるはずがない。本当にあったとしてもどこかインチキくさい感じがする。
「絶対雀感?あぁ、俺は持ってるヨ、絶対雀感…。」
徹夜明けのファミレスで友人のHがこともなげに口にしたのは、アタキの絶対雀感を探す旅が始まって既に十年以上経った頃のことだった。
こんな身近に絶対雀感を持っている人間がいたことにも驚いたが、Hが絶対雀感の持ち主であることを今まで知らなかった自分も自分だ。
絶対雀感を持っているからといって普段の生活がそれを持っていない一般人と異なることはなく、その特異な能力が発揮されるのが麻雀している状況でだけなのはもちろんだ。そしてHは確かに麻雀の腕は超一級ではあるが、アタキが勝つことだってあるので、絶対雀感は「絶対的に麻雀に勝つ技術」ではない。勿論、麻雀に常勝はあり得ない。
そんなことは充分に判っていたが、それでもアタキは絶対雀感というものに興味を覚えた。
それが一体、何なのか、知りたいと思った。
絶対雀感を持っている打ち手は、アタキも含めたそうでない打ち手と何が違うのだろう。
その違いはどこから生まれたものなのだろう。
彼らには麻雀がどのように見えているのだろう。
そして、できることなら自分も絶対雀感を身に付けたいと思った。神様から選ばれた雀士の一人になりたいと思った。心から思った。
探す旅の始まりは絶対雀感を持っている人々との出逢いだった。
自分が持っている独特の感覚、特異なセンスを『絶対雀感』という言葉で表現する人は少なかったが、それを持ちえていないアタキには彼が絶対雀感の持ち主であることは理解できた。
常人である自分と彼らとの打廻しの違いは確実にある。
しかしそれらの違いのすべてが『絶対雀感』を持っている持っていないことに因るものなのか、たんにパーソナリティの違いに過ぎないのかは判らない。
「覚えて三か月くらいすると明らかに勝ち組に入ってました」
そう答えてくれたハルは弱冠二十歳の専門学生で、彼が副露すると誰からともなく「ハルポン」「ハルチイ」と口にし、その喰い仕掛けの巧さには定評がある。
(ドラ)
上家からやが切られると、迷うことなくチイしてを捨てるのがハル流だ。
常人には「嵌四筒待ち」の聴牌形が、ハルには「一四筒の両面聴」と「一三五筒の両嵌」に見えているのだろう。
(ドラ)
この牌姿なら、だってチイするのかもしれない。
「特に意識しなくとも向聴数はいつも浮かんでます」
そう答えたのは、かつては代打ちの代走料で生活していたこともある、大型雀荘チェーンの店長だ。
[配 牌] 第一打
[四順後] リーチ、打
三巡目にツモったのがでなく、であっても振り聴でリーチしたとのこと。
また、それがだったら、七対子に寄せただろう、というのは後で聞いたことだ。
「奴のトップ率は四割近い」と恐れられているKは「単騎のK」だ。
(ドラ)
この手でオーラス、トップと 10300 点差でリーチしないKは、裏ドラや一発に頼ることなく、ただひたすら単騎待ちへ変化するのを待つタイプだ。それがいつも見事な結果につながるので、Kの麻雀をとやかく言う奴は一人もいない。
「この手を和了ることが目的じゃない。トップを取ることが目的だ」
Kの言葉は至極もっともだが、アタキには我慢ができない。
実はアタキ自身も「自分には絶対雀感があるのではないか」と考えたことがあった。
それはある雑誌の『何切る』問題での話。
ツモ (ドラ)
アタキはノータイムで切りなのだが、その答えはドーデモイイ。
この問題を見てスグに、Aさんなら切りで、Bさんなら切りだろう、と予想した。その予想は見事に的中した。
それを公言した当時は、AさんともBさんとも直接の面識はなく、つまり囲んだことがない二人の打筋がアタキには判ってしまったわけで、もしかするとこんなことが絶対雀感なのだろうかとも考えた。
冷静になって振り返るとそのアタキの『読み』は、絶対雀感が備わっているからというよりも修練によってというのが正しいかもしれない。
アタキのようにあやふやでなく、自分が絶対雀感を持っていることに気付いた何人かの打ち手がいる。彼らはいつどのようにして、その才能を自覚したのだろう。
「Aプロの何切るの回答が、全部、自分の選択と同じだった」
そう言ったTさんは、それ以降は別の書籍でも、そのAプロの何切る回答に注目するようになり、その結果が見事に完全に自分と同じだと言う。別のプロと呼ばれる上級者の回答とは違うことはよくあるのに、Aプロとはいつも同じなのだ。
Tさんは、自分とAプロは同じ感覚を身に付けているのだ、と信じているが、その感覚こそが絶対雀感と呼ぶべきものなのは明らかだった。
「完全にオリている状態で安全牌を探している他人を見て不思議に思った」
そう答えてくれたSは、荒牌時には相手三人の手牌の十枚以上を言い当てることができる。
河からの情報を分析した結果であろうはずのこの芸当をS自身は「なんとなく」と表現しているので本人にはそうなのかもしれない。
「牌姿のパターン数はそんなに多くない」
そう言いきるUは、配牌を見る度にこれは以前見たことがある配牌なのかどうかを瞬時に判断してしまう。
完全に同じであることはないのだが、Uには「確率的には同じパターン」が判るらしい。
上の二組は全く同じだと言うのだ。
十三枚全体で考えるのではなく、数牌の多い色の順に並べ替え、[五枚/四枚/二枚/二枚(字牌)]のようにブロックで考えるとわかりやすいはずだと彼は教えてくれたが、アタキには信じられず、これも絶対雀感のなせるワザなのだろう。
自分に備わった特殊な感覚を意識できている打ち手と話していると、実は彼らは、その感覚を持っていないアタキに対していくばくかの優越感を抱いているような印象を持った。
一応、言葉で説明はしているものの内心では「こんなことが理解できないのか」と思っているのかもしれない。
もう一つ、彼らに共通しているのは、彼らは最初から麻雀が強かったという事実だ。
驚くべきことに彼らは麻雀を覚え始めた頃から、『勝ち組』であったというのだ。
その始まりは家庭麻雀であったり、ゲーセンの脱衣麻雀であったり、サラリーマンになって上司に誘われてだったりと麻雀との関わり方やその年令などはマチマチであるにも関わらず、ルールを覚えて以降は、そのグループ内では明らかに強い方であったらしい。
彼らの持つ絶対雀感はビギナーの頃から、彼らの周囲の打ち手を圧倒していた。
彼らは戦術本を貪るように読んで研究した結果として強くなったのではなく、また賭け麻雀によって大きな授業料を払い続けて強くなったのでもなく、ビギナーであった頃から、その回りでは明らかに勝ち組だった。
絶対雀感とは特定の人間だけが生まれつき持っている特殊な能力なのか。
あるいは、誰もが持っているかもしれない能力ではあるが、それをビギナーの時に開花させることができた打ち手だけが、永続して持ち続けることのできるものなのか。
ならば、絶対雀感を持っていない一般的な打ち手は永久にその感覚を身に付けることはできないのだろうか。
「正直言って、羨ましいと思ったことはあります」
団体に所属している若手プロのKは、絶対雀感を身に付けるためにいろんな努力をした過去を持っていた。
「よくやるでしょ、米粒を手の中に持って映像として覚えるとか、同種の牌を十四枚集めて和了ってなければ瞬時に不要牌を選ぶとか…」
練習した結果、確かに身に付いたモノはあったが、それはKが考えるに絶対雀感とは別物らしい。Kには、絶対雀感を持つ打ち手はこんな努力とは無縁の存在なのだと思えている。
絶対雀感の無い自分に、ある種のコンプレックスを持っていたのだともいう。
「コンプレックスを克服したわけではないです。今でも時々、目覚めたとたんに麻雀の神様があらわれてくれないかなぁなんて(笑)」
絶対雀感とは、ピアニストにとっての指が長いことに似ているのではないか、とも話してくれた。
「指が長いことはピアニストとしては間違いなく有利なことで、それは先天的な資質かもしれませんが、ただ指が長いだけでは人を感動させるピアノは弾けないでしょう」
Kをして「先天的な資質」と言わしめた絶対雀感とは、本当に修練によって身に付けることはできない類いの能力なのだろうか。
「それは数学的な意味での確率/数値を色彩や濃淡として認識できる能力のことでしょう」
Kの師匠筋にあたる中堅プロのMさんは、絶対雀感をこう表現してくれた。
絶対雀感が発揮される場面での選択は決してオカルトチックなものではなく、常に確率論的な立場でみると正着であることがほとんどだと言うのだ。ただ、絶対雀感を持った打ち手が毎回見せる結果にのみ目がいって、ついつい何かしら不可思議な能力であるかのような錯覚を凡人はしてしまう、と。
「例えば、ペンチャン待ちとカンチャン待ちの待ち牌の枚数が同じことだというのは考えるまでもないことで、それと双ポン待ちも同じだというのも誰でも知ってることです。私のように長いキャリアを積めば、どんな変則待ちであっても待ち牌の数で迷うことはありません。絶対雀感を持っている人達は、待ち牌の数なんかよりももっと複雑な状況の確率を把握しているのでは」
もちろん、それを何パーセントみたいなことで認識しているのではなく、もっとアナログな感覚で察知するのではないか、というのがMさんの考察だ。
「たまに彼らだってミスするのは、濃淡の違いみたいにそれが間違いやすい場合なのでは。まぁ、ご存じのように常に正着を選択し続けたって、常勝なんてできないからこそ私なんかがやっていけてるわけでしょうけど」
Mさんは後天的にそれに近いものを習得することは可能だとも言ってくれた。
「映画レインマンのダスティンホフマンほどでないにしても、あれに近い能力だと思ってます。紙と鉛筆と電卓を持って、時間をかけて囲みさえすれば誰でも同じ結果になるでしょう、きっと。もちろん、第一打から常に確率的に優位な手を選択し続ける、という前提ですが...」
視覚や脳と直結できるような超小型の電算機があれば、絶対雀感なんて無意味になるのだろうか。
あるいは、誰もが絶対雀感を身に付けた世界が訪れる、と言えるのだろうか。
たんに、打廻しがウマいだとか、牌姿の最終形を明確に意識しているだとか、我慢がきくだとかを超えたレベルに、絶対雀感はある。
絶対雀感を持っていない一般人が、その打廻しを初めて目にした時には、それが絶対雀感によるものなのかそうでないのかを判断するのはかなり困難なことだろう。
その裏には打っている本人さえも意識していない論理的な根拠があるにも関わらず、その根拠を明確に伝える術がない(言葉が足らない/時間がない/講釈タレルのは嫌いだ等)ために、時としてそれは『ツキの流れ』や『牌の勢い』などといったオカルトチックな考えと混同されることもあるのかもしれない。
残念なことに現状で絶対雀感の何たるかを分析することは不可能だし、アタキ自身が身に付けることもできそうにない。そんなアタキ達一般の麻雀愛好者ができることは(「絶対」じゃなくとも)「雀感を磨く」ことくらいしかないのかもしれない。
アタキはまだ、旅の途中だ。
だははは、「絶対雀感」なんて言葉は無い!
いつもどおりのオチャラケなので、批判メールは一切無視するよ~ん!