麻雀打ちの頁/雀のお宿

麻雀における「愛」について。人を愛し、牌を愛し、卓を愛し、結果を愛するとはどういうことか。さあ、あなたも雀教法人「あさすずめ」へご入会ください。

公開

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「愛」について

ある怪しい講演会でのスピーチ

こんにちは、皆さん。
ただいまご紹介にあずかりました、雀教法人、あさすずめ、へなちょこ支部の百貫雀ともうします。
今日はこのようにたくさんの方にお集まりいただきとても感謝しています。 支部の会員の皆さまの不断の活動に深く感謝するとともに、本日、初めて我があさすずめの勉強会へお越しの皆さまにも御礼を申し上げます。
ご縁あって、こうして皆さまとご一緒させていただき、今から同じ時間を共有できる喜びを心からありがたく思っています。
そして、私自身に与えられたこの場をせいいっぱい努めさせていただくことを、ここにお約束したいと思います。
短い時間ではありますが、よろしくお願いいたします。

本日のテーマは愛について、です。
愛とは何でしょう。それは、たんに麻雀が好き、という感情とは違うのでしょうか。
麻雀に恋してる、という状態とは違うのでしょうか。
私達はしばしば、麻雀を愛している、という言葉を耳にすることがありますし、私達自身の中にもそうしたことを口にすることがあるかもしれません。
でも、本当に、愛について考えたことがあるでしょうか。
愛について、深く考え、その本質を理解しない限り、本当の意味で麻雀を愛することはできないと思いますがどうでしょう。
今からのお話は、麻雀を愛することの意味、愛についての本質を知り、皆さまお一人お一人が心から麻雀を愛する、ということにお気づきになる一つの手助けになることができたらと考えています。

愛と一口に言っても、そこにはさまざまな違いがあります。
まずは、その対象、つまり何を愛するか、ということです。
麻雀という競技を愛する、麻雀仲間を愛する、対戦相手を愛する、自分に満貫を振り込んでくれた下家を愛する、…。
麻雀牌を愛する、赤ドラを愛する、点棒を愛する、焼き鳥マークや起家マークを愛する、さらには自動卓を愛する、自動卓の電源コードを愛する、…。
雀荘を愛する、フリー雀荘のルールを愛する、雀荘に集まってくる客を愛する、メンバーを愛する、自分を愛してくれているメンバーを愛する、自分を愛してくれていると勘違いさせてくれるメンバーを愛する、…。
麻雀ゲームに登場するキャラクターを愛する、アカギを愛する、哲也を愛する、「咲」の原村和(はらむらのどか)を愛する、原村和のおっぱいを愛する、…。
どれも間違いなく、愛する対象ではあるのですが、その愛のベクトルは一様ではありません。
およそ麻雀に関するあらゆる人々、グッズ、事象や現象は愛する対象となりうるのですが、そこにある愛はあまりに無秩序で茫漠としていると感じてしまうのは私だけでしょうか。
でも、深く愛について考えていくと、そこには確固とした愛の本質があることがわかります。
愛の本質とは何でしょうか。

愛する対象が何であれ、その内側、つまり愛する気持ちになった私やあなたの側には、愛する心があります。
他人がどうとも思わないのに、それを愛してしまったというのは、愛する心があったからこその結果といえるでしょう。
愛する心が、その対象を、愛の対象にまで昇華させたのです。
私やあなたが持っている、愛する心とは、はたして何でしょうか。

愛する、ということは、三つの心の動きです。
それは「許す心」「祈る心」「活かす心」です。
何を愛する場合にでも、この三つの心が作用しています。
三つの心の動きについて、少し掘り下げて考えてみましょう。

愛は許す心。
許す、とは何でしょうか。
許す、それは「赦す(ゆるす)」「認める」「受け入れる」ということです。
赦すという言葉は罪を犯した人、あるいは犯された罪そのものを赦す、ということです。
チョンボした相手を赦す、空ポンしたけども赦す、三味線を弾いたけど赦す、というのが一般的でしょうか。
勘違いしてはいけないのは、赦す、ということと、無罪放免とは違うということです。
犯した罪に対して何らかのペナルティが課されることがあっても、かまわないのです。 そのペナルティを支払った対価として赦される、ことがあってもかまいません。
要は、過去に犯された罪に対して、そのことを無かったこととして、新たな半荘に臨む、これが「赦す」ということです。

認める、というのは、その存在を認める、もしくはその考え方を認める、ということです。
人によって、麻雀観は千差万別です。 自分と違うタイプの麻雀打ちであってもその存在を認め、自分と価値観の違う考え方も認める、ということが「許す心」の二番目です。

「受け入れる」は皆さん、よくご存知ですね。
ドラを受け入れる、カンチャンツモを受け入れる、などが一般的でしょうか。
もちろん、それらも受け入れることですが、もっと考えを高みに持っていくと、いろんな対戦相手を受け入れる、というように使うこともできます。
さらには、いろんなローカルルールを受け入れることもありますし、麻雀経験のないアルバイト応募者をメンバーとして受け入れることでもあります。

今、述べた「赦す」「認める」「受け入れる」が、愛する心の一つ「許す心」の本質です。

愛とは祈る心。
私達は、麻雀をしない人に比べると、この「祈る心」を多く持った存在かもしれません。
「一発でツモってこい」「この牌が当たりませんように」「高目が山に残っていてほしい」など。
ところがこれらの思いは、はたして「祈る心」と言えるでしょうか。
私には、これらは「祈る」というよりは「願う」という気持ちのように思えます。
何か、自分にとって効果的な有利な結果を願っているだけの気持ちではないでしょうか。
愛する心の一つである「祈る心」は、「願う心」とは違います。 決して具体的な効果や効能を期待するのではなく、大きな存在に対しての無償の語りかけ、こそが「祈る心」です。
例えば、クリスチャンの方は食事の前に祈ります。 これは何かを願っているのではなく、今、こうして、無事で食事をしていられることを神様に感謝しているだけなのです。
「祈る心」とは、麻雀の神様に語りかけ、その神様に感謝する心なのです。
今、この卓に付けて麻雀が囲めるという事実、普通のサラリーマンが仕事しているであろうこんな時刻にフリー雀荘でサボっていられる境遇、さっきのターパイを誰にもバレずに流局できたことを麻雀の神様に感謝すること、これこそが「祈る心」です。

愛とは活かす心。
与えられた配牌を活かす、ドラの入りを活かす、といった闘牌時の局面で使われる言葉ですが、それだけではありません。
完全先付けしか経験のない打ち手をアリアリの正常なルールに慣れさせるといったこともその人を活かすことですし、四人でやっているサンマ卓で抜け番の人に、牌山を前に出させるということも、その人を活かすことにつながります。
人であれ、モノであれ、ありとあらゆるものには何らかの存在意義があります。
それらの価値を高め、皆がよりよい麻雀を楽しめるような環境を構築することに寄与させることが「活かす心」です。

ところが、ものごとの本質を知らずに、そのものを活かすことはできません。
活かす心を実践する前に、「知る」ことこそが何にもまして重要です。
これは「許す心」にも通じることですが、「活かす心」の前提として、そのモノの本質を充分に知る、という行為が必要です。
知らないことを「許す」ことも「活かす」こともできません。 その打ち手が、今月、負けが込みすぎて財政がピンチになっていることを知っているからこそ、彼の借金を「許す」ことができるわけです。 彼が煙草の煙が苦手なことを知っているからこそ、彼のリーチ後に顔に煙を吹きかけて自分が捨てた当たり牌を見逃させるというワザを「活かす」ことができるわけです。
愛とは「許す心」「祈る心」「活かす心」のことであり、そしてその前提として、さまざまなことを「知る」ということが重要なわけです。

私達には、愛する、ということがわかりかけてきました。
今から囲む半荘でスグに、この愛することを実践することは難しいことかもしれませんが、今までのように茫漠とした感じでなく、はっきりとしたイメージが湧いてきたのではないでしょうか。
今までの話は、次回のテーマである「愛こそトップの近道」の前振りに過ぎません。
次回の勉強会に参加をご希望の方は、こちらのブースで、住所と氏名をお書きになり、簡単なアンケートにお答えになってください。
雀教法人あさすずめは、皆さまと一緒に、素敵な麻雀ライフを実現することを目的としています。 一人でも多くの方が、正会員になっていただけたら、と願っています。
本日はご清聴、ありがとうございました。