麻雀打ちの頁/雀のお宿

完先ルールの真の面白さはその和了り制限の中にこそある。ただ素直に手牌が育つのを待つのではなく、打ち手自らが強い意志を持って、役を指向することが求められているのだ。

公開

緊縛の愉悦

緊縛の愉悦

アリアリルールでは味わえない楽しみとは…

広告

アタキは『完先撲滅推進論者』だ。
知らない人は知らないけれど、知ってる人は数少ない。
何を今さらって思う奴が周りにはたくさんいそうだけど今回の放言は、撲滅とは関係ない。 たぶん。
そう、前々回の「完先という名の」の続編なんだけど今回はその面白さについて。
って、つまり、何だ、一般的なアリアリルールでは味わえない面白みが、実はあるんだ、って話。 こんな話はあまりお目にかかれないので、どんな屁理屈をこね回すのか、どんなコーシャクたれるのか、アタキ自身、今からかなり楽しみだ(笑)。

完先ルールの要諦は次の四点だ。

  1. 喰いタンヤオ無し/ツモ平和無し(ナシナシ)
  2. 副露時には先付けしてはいけない(完全先付)
  3. 和了牌の種類で役が不確定だと和了れない(面子選択無し)
  4. 振り聴立直の禁止/立直後の見逃しの禁止

んっ?この前の話とは少し違うが、こっちが正解の筈。 細かなことは気にセン気にセン(笑)。
一般的なルールにこの四つの規制を付け加えただけにすぎないわけで、この「規制を付け加えただけ」って点はかなり重要。
新たな役を設けたわけでもないし、ゲームの進行方法が異なるわけでもないし、持ち点がどうとかトップのオプションがどうとかって話でもない。 ただ、『和了り方』に規制があるだけだ。 いくつかの状況では、その形では和了れません!って言ってるだけだ。
どんなゲームであれ規制が増えると複雑になる。 何が複雑になるのかいろいろと考えられるけど、中にはそのせいでゲームのコクというかキレというかノドゴシみたいなものが増すこともある(ビールじゃねぇってか ^_^;)。
その規制が誕生した背景が何であれ、結果としてマルなこともある。

喰いタンヤオを認めないという規制はかなり大胆だ。
数ある麻雀の和了役の中でも由緒正しい役の一つで、平和や七対子に続いて出現頻度の高いタンヤオを喰い下がり(副露時に飜数が下がること)の対象にすることで、いわゆるノミ手の発生が少なくなる。
対々和と絡まないのに、何故、喰い下がりするんだよぉ!なんてワメいてもしかたない。 そんな論理的な反論は一切通用しないのが、完先ルールの特徴でもある(笑)。 世の中には「対々和の場合だけ喰いタンヤオを認める」なんてーのもあるから、もう、根拠なんてドーデモイイのだ。
「喰いタン、ドラ三」なんて手ができないことのメリットは、門前を重んじる多くの打ち手の賛同を得られそうな規制だ。
他の副露規制についても言えることだが、いったん副露した手の最終手牌が看破しやすい/看破されやすいという特徴の一端も担っている。

ツモ平和を採用しないという規制が手牌を進行させる戦術を左右することは少ない。
一番、影響が少ない規制と言えそうだ。
平和形をツモるかそうでないかは、神のみぞ知る山の牌の順番に依存することが多いだろう。 勿論、ツモ和了りした結果が、一般的なルールならばハネ満なのに完先ルールでは満貫止まり、みたいなことはしょっちゅうのことで(メンタンピン即ツモドラ一)、平和形でダマで三飜の手なら、立直をかけるタイミングによっては(裏ドラが無くとも)ハネ満になる可能性を秘めているルールとそうでない完先ルールとは、きっと何かが違うのだろう。 アタキはあまり考えたことがナイけど…。
一般的なルールに対して、「ツモったんだから、平和なのはオカシイ」という反論はもっともなものだ。 完先ルールとは別件で、「何故、ツモピンという役があるのか?」考察してみたいもの。

副露時に先付けしてはイケナイという規制には、読みの範囲を絞る効果がある。
一つ目の副露で手役の候補が半分に絞られ、二つ目の副露でさらに半分に絞られる。 「半分」というのはアタキの勝手な感覚だ。
手役の面子構成がほぼ想像できたからといって、栄和牌が完全に看破できることは少ない。 しかし、敵に多くの情報を与えるということそれ自体は不利なことなので副露は特なことじゃない。
捨牌を読むステップは、
『牌の枚数→現物牌→手中の牌→狙い面子→他家の推理結果→手牌の全貌』という構成が基本だけど、完先ルールで副露した相手に対しては半分の労力で同じ効果を生む筈だ。
元々、完全な看破なんてできない(と思われる)麻雀において、この規制の結果、かなりの線まで看破が可能になる。 それでも副露した場合にだけ、というのはバランスが悪い。
いきおい、門前が重視されてしまうことになる。

面子選択による不確定な役での和了りを認めないという規制は、実はこれこそが立直が多用される原因だ。
聴牌したら立直→立直されたらオリ、みたいな状況はあんまり楽しくはない。 だけど、アリアリルールと比べて実際の立直の頻度は、というと、フリー雀荘では(アタキが出入りしている十数軒の雀荘においては)完先だから、という理由で必ずしも立直が多いわけでもなさそうだ。 って言うか、アリアリのクラブでも充分、立直は多いのだ。 何て言ってるアタキ自身、完先ルールの雀荘よりもアリアリのそれの方がずっと立直をよくかけてる(だから勝率が低い、って話は置いといて...)。
立直をかけるかけないは、オプションに依存されるのでこんな実状なわけだ。
だけどもオプションを狙うためのギャブル立直と、和了るために必要な立直とは別物だから、完先ルールではツモってくる牌のアトサキにその結果が強く反映されるとも言える(ん?何かオカシイ?(笑))。

振り聴立直や立直後の見逃しに関する規制は、少し悲しい。 ち、違う、違う、これはこれで当然の話(本当か!)。
ん~と、どう考えてもアタキにはこんなの禁止するメリットが思い付かない。
ん~と、ん~と、ん~と、やっぱ思い付かない。

まぁ、こんな風に完先ルールのメリットにもいくつかあることは証明されたわけだ(笑)けど、本当の面白みは、キツい制限の中での戦い、という点にあるのは言うまでも無いことだ。
「何でも立直で大味」や「回し打ちがきかない」や「矛盾点が多い」なんかの批判はよく耳にする。 そんなデメリットを相殺してなお、それ以上の面白みがあるとすれば、その制限の中にしかない筈。
「役を作る」楽しみは、よりキツい制限がある方が大きいに違いない。
どうせなら、常に二飜縛りにするとか、立直なんて採用しないとかの過激なルールにすれば、完先ルールの醍醐味を堪能できるに違いない。

もし、立直を採用していない完先ルールがあるとしたら次の手牌は何を切るのが正解だろう? ([雑録]「記憶の牌姿」より)

【例A】四索四索五索六索七索七索八索九索二筒三筒四筒六筒六筒六筒
【例B】四索五索七索八索九索二筒四筒四筒四筒五筒六筒七筒九筒九筒

勿論、六筒切り、九筒切りがそれぞれ正解なのだけど、こんなデリケートな面白みは、完先ルールでしか味わえないものだ。

…にも関わらず、アタキが何故『完先撲滅推進論者』なのかは謎だぁ。

広告

ピックアップ頁