麻雀打ちの頁/雀のお宿

ウマの観点から考えた「仕事」の意味について。「仕事」の本当の意味。対局者全員が良い仕事をすることによって高レベルの麻雀対局が実現する。

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お仕事の理由

アタキは好きです

麻雀観は千差万別であると言われる。
当然の話だ。
何のために麻雀してるのか、何を目的として打っているのか、他人の知ったことじゃない。 ただ好きだから、他にやることがないから、牌をツマんでいるだけでも幸福を感じることができるから、もしかするとそれが仕事だから。
色んな考えの打ち手がいることそれ自体も楽しいことだし、その考えだって変わることがあってもマルだ。 複雑さや渾沌は、新しい何かが生まれ出るための土台なんだ。
ところが、こと半荘を闘っている最中においては、打ち手四人の思惑がそれぞれ違ったのでは困った事態を招いてしまう。
例えば、ラスを引くことを目的としている打ち手が一人でもいるとどうだろうか。 あるいは、自分がトップを取るのではなく別のある打ち手にトップを取らせることを目的としている打ち手がいたり、さらには特定の打ち手にだけはトップを取らせまいと考えている打ち手がいるとどうだろう。
四人全員がそれぞれトップ、二着、三着、ラスとなることを目指して行われている半荘がもしもあれば、それは通常の意味での麻雀とは違う種類のゲームだ。
基本的には全員がトップを狙うというのが、半荘の目的であり、他人がそう考えているであろうことを想定してこその戦略である。
しかし、実際にはある。
あいつにだけはトップを取らせまいと考えたり、この半荘は二着でも良しと考えることが本当にある。
これは、とんでもないことで、麻雀というゲームの本質を根底から否定してしまうような無茶苦茶なことなんである。

これが、一対一のゲームであれば話は簡単だ。
相手に勝つことがその目的であり目標であり、そうするための方針が戦略となりうる。 「勝ち」以外には、「引き分け」か「負け」しかない。
野球では一点差で勝っても大差で勝っても一勝は一勝でしかなく、サッカーでだって勝ち点が三点以上増えることはない。 ラグビーでも相撲でもテニスでも将棋でも、一対一のゲームであれば、「大勝」だとか「圧勝」だとか「惜敗」だとか「逆転負け」だとかは、たんに過程を表現しているだけで、「勝ち」は「勝ち」であり、それを目指すこと以外には意味は無い。
麻雀の場合、ややこしいのはプレーヤーが四人もいることだけでなく、トップ者(=たぶん、唯一の「勝利者」)以外にも順位が着けられるからだ。
「二着は勝ちなのか、負けなのか。あるいは引き分けなのか」
「ラスが負けだが、それは三着とどれくらいの違いのある負けなのか」
さらには、半荘終了時の持ち点なんてのも話をややこしくしている要因の一つだ。
「原点より浮きは勝ちなのか、負けなのか。引き分けなのか」
「ドボン(箱割れ)は負けだが、普通の負けとは違うのか」
いわゆる「二位問題」と「原点問題」だ。

プロ団体の一つである101競技連盟の規定では「二位問題」は積極的に解決されている。
トップは勝ちであり、ラスは負けであり、それ以外の二着と三着は引き分け、というものだ(同点者が複数いる時は、なんて細かなツッコミは却下)。
最終的な持ち点の多寡に関わらず、一回の半荘で、(通常は)一人の勝者と一人の敗者と二人の引き分け者が確定するのだ。
ブー麻雀の規則では「原点問題」まで解決されている。
トップが唯一の勝ちであり、原点より沈んでいる者は負け、浮いている(トップでない)者は引き分け。 ただ、勝ちの価値にはパターンがあって、負けを多く作った勝ち(=引き分け者が少ない勝ち)の価値が高い、という複雑さは残っているが...。
ところが多くの麻雀打ちは、101競技規定で戦ってはいない。 誰もがブー麻雀をやってるわけでもない。
いつも「二位問題」と「原点問題」に悩まされながら、ぼくらは麻雀を打っているわけで、その悩みさえもそうとは感じない程に、この曖昧な状況にどっぷりとハマってしまった。 そして、本来の目的を見失ってしまった。
本来の目的とは、「勝つ」ことのはずだ。 「勝つ」こと以外には何の意味もない。

「勝つ」こと以外には何の意味もない、のか。
本当はそうじゃない。
着順と浮き沈みを問題にしている以上、そんなに簡単に割り切れるものでもない。 逆に言えば、ただ「勝つ」こと以外にも何らかの意味を持たせるために、着順や浮き沈みを取りざたしているとも考えられる。 多くの人はそんなことに意味を持たせたいとは思っていないだろうが、現実に着順や浮き沈みという結果が存在する以上、そう考えでもしないと話が先に進まない。
では、ぼくらが持たせた「「勝つ」こと以外の意味」とは何だろう。
 ・もし勝てないのなら、少なくとも負けたくはない。
 ・負けるとしたら、小さな負けで済ませたい。
小さな負け、...これは負けの大きさ(小ささ)を問題にしている。
半荘の終盤では勝負の趨勢が決まってしまうことがある。 まして、偶然に巡り会う自分の手牌を鑑みながら参戦しなければならないわけで、いつでも全員が「勝ち」を目指すことができるわけではない。 だから、本当の「勝ち」を狙うことの次善の戦略として、負けの大小を意識しているわけだ。
すると当然のように、「勝ち」にも大小があることに気付く。
 ・同じ「勝ち」でも、大きな勝ち(=大量の点数を獲得してのトップ)を取りたい。
 ・大きな勝ちが取れなければ小さな勝ちでも良い。
他人の利益は自分の不利益。 だからこんな考えも出てくる。
 ・敵に、大きな勝ちを取らせたくない。
自分の結果がどうこうではなく、敵のことだ。
何かしら違和感を覚える考え方だけど、それもこれも着順や浮き沈みという結果を大事にしたから招かれた結果なわけで、本末転倒、七転八倒、抱腹絶倒、言語道断横断歩道なことだと言える。
ではあるけれども、そんな「「勝つ」こと以外の意味」に、充分な理由付けをするために生まれたのが、実は「ウマ」であって、着順や浮き沈みという結果を増幅させる効果が、この「ウマ」なんである。

「ウマ」にも色々あるが、ここで問題にしたいのは、着順と浮き沈みの両方の結果を増幅させる効果を持った、ウマについてだ。 「順位ウマ」と「浮沈ウマ」とを併せた「混合ウマ」。

混合ウマの例1
トップ二 着三 着ラ ス
一人浮き+60-10-20-30
二人浮き+30  0-10-20
三人浮き+10  0  0-10

これが代表的な例かどうかは別にして、このウマならばトップ者は必ず一人浮きを狙おうとするし、そうでない者は浮きを目標にし、浮く望みを断たれた者は自分以外の多くの者を浮かせようと努力する。
この表は実は、一人浮きの場合の各沈み者に着順が考慮されている点を除けば、ブー麻雀の影響を強く受けているウマなわけだが、浮き沈みという概念そのものがブー麻雀から発生したものなのでこうなるのは当然のこと。
ブー麻雀では、同じトップであってもマルエー(=一人浮き)とチンマイ(=三人浮き)での価値は天と地ほどの開きがあるのが普通で、さらには場代はトップ者の支払いが常識なので、このウマで例えば場代を5ポイント分(実際にはこんなに安くはない)と考えると、マルエーのトップ者は+55ポイント、チンマイのトップ者は+5ポイントという結果になって、その価値は十倍以上というトンデモなことになる。
そして、このトンデモな結果こそが、浮き沈みという結果を考慮している場合のコクでもある。

混合ウマの例2
トップ二 着三 着ラ ス
一人浮き+90-30-30-30
二人浮き+27+13-20-20
三人浮き+ 6+ 3+ 1-10

この例は、以前、感想メールをくれた方から寄せられた情報で、仲間内で開催する大会用に考案したウマということだ(フィーバーぷらむさん、ありがとう)。
前の表では沈み者について着順が考慮されていたが、この表では浮き者について着順が考慮されている。 そして必ずプラスかマイナスのポイントが付く。
じっくりと眺めていると、なかなか味わいの深いウマであることがわかる。
トップ者は常に一人浮きを狙うのは当然のこととして、例えば三人浮き状態の二着目は三着目を沈ませて二人浮き状態にするのが「お得」なんである。
二人浮き状態の三着目は自分が浮くことで自分が得するのは勿論だが、それによってラス者の負けを小さくすることができるという結果を招くことになる。
一人浮き状態であっても二人浮き状態であっても、沈んでいる者は自分以外の誰かを浮かせることで自分が大きく得をすることができる。
そう、これこそが「仕事」なのだ。

「仕事」という用語は、ここでいうこととは別の意味を想像させてしまってあまり具合がよくない、 という主旨の文章を浅見了氏のサイトで発見して、まったく同感だった。
まして、それがかつてテレビのニュース番組でそういった技を披露された方の口から出たとなるとなおさら…。

ようやくタイトルにたどり着いた(笑)。
「仕事」という行為について勘違い、あるいは過分な意味を持ってしまっている打ち手があふれているけれども、何のことはない。 自分が得するための戦略の一つが「仕事」なのだ。
雀鬼会のウマは、上に掲げた両方のエッセンスを含んだ(個人的には好きな部類に入る、素敵な)ルールであるけれども、そのシステムの上でこそ、ようやく意味を持つことができるのが「仕事」である。 実際のところは、そういった行為(自分が沈んだままでも他者を浮かせる行為)を評価するために採用されたウマなのだろうと思われる。
トップ者は沈んだ者からの出和了りができない(出和了りは、浮いた者からの直撃に制限されている)のも、それがトップ者にとっては(ウマのプラスマイナスの上で)何のメリットもないからに過ぎないし、自分が浮くことでマイナス者を助けるという論理も、それが自分にとってプラスなだけでなく、マイナス者にとってのマイナス分を軽減できるからなのだ。
「全員が原点で終わるような半荘こそが素晴らしい」なんてワケはない。
トップ者は常に一人浮き状態に向かって切磋琢磨し、大きな価値を手に入れるべきだし、他者はそうさせないことこそが自分の利益を守ることにつながるわけで、その結果として、全員が不利益を被らなかったような戦いが評価されるだけのことだ。

雀鬼会の和了りに関するいくつかの制限を初めて知った時、普段やっているルール(ブー麻雀の一種)から考えると、そのどれもが極めて当然のことだったにも関わらず、それが特別な独特の価値観に基づいたものであるかのような意見を聞いて不思議に思った。
それを明確な規則としたことの新規性はあるけど、ウマを念頭において考えるとそのほとんどは納得のいく制限なのだ。
「漢(オトコ)」がどうたらじゃ決してない。 大局的に考えて、自分が得するための行為を追求した結果が各種の制限に過ぎない。
…だから、あの制限はいかんだとか、たいしたものじゃないってことじゃない。
ゲームをより楽しむための一つの方策であって、個人的には好きな規制なんである。

本当は、「チンマイ時における場代」のことにも言及するつもりだったけど、久しぶりの放言で疲れたので今回はここまで。
「テラ(雀荘)との共謀」を阻止する効果が「仕事」には隠されているという驚愕の事実については別の放言で。
いつものように、それがいつアップされるのかは今のアタキにもわからない。 ごめん。