麻雀打ちの頁/雀のお宿

「手なり」と「手拍子」のように、麻雀で使用される言葉の内、似た意味を持ついくつかの専門用語についてその微妙な違いをわかりやすく(?)解説してみた。

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手なりと手拍子

中には、ニュアンスが違うとしか言いようのないものも

用語をちゃんと正しく使うのは難しいことなのかもしれん。
まして、麻雀。 仲間内でワイワイ楽しくやるのが基本(?)なんだから、そのグループで通用しさえすれば他人がとやかく言うものでもないし、ある言葉が別のグループでは全然違う意味で使われてたって、それが取り立てて大きな問題になることなんて、普通はない。
だけど、ネット麻雀やったり、フリー雀荘に行ったりするようになると、当然のようにちょっとした言葉の用法の違いが他者とのコミュニケーション上のトラブルになりうる可能性もあるわけで、トラブルなんてことじゃなくても、ちっとばかし気持ち悪い事態を招くことだってないとは言えない。

[辞林]なんてカテゴリーで偉そうにノーガキを並べていると、ちょっとした用語の使い方について質問されることがある。
今回は、いくつかの麻雀用語についての微妙な違いについての講釈をタれてみる。
今回掲げるいくつかの用語の使い方が、アタキと少々違ったって、それが実際に何かの問題を引き起こすなんてことは到底考えられないので(笑)、あなたはあなたの道を行け。
おチャラケは一切無し、だ(←ワザワザ断るなよ)。

「手なり」と「手拍子」

「手なり」は、「手の成るように」って意味だ。
ツモって来た牌に従って、四つの面子と一つの雀頭が早く完成するように手(手牌)を進めること。
三色同順や一気通貫や、間違っても全帯么なんて役を目指しちゃいけない。 役を狙うこととは対極にあるのが「手なり」なわけだ。

一筒二筒三筒四筒六筒七筒七筒八筒二萬三萬四萬二索四索 ツモ五索

ここで、二索を切るのが「手なり」。
二索以外に手がかかったら、それは「手なり」じゃなくって「アンタなり」だ。
んで、「手拍子」の場合は、ツモった牌と呼応して(って意味がワカランなぁ)不要と思しき牌を切ることで、早く牌姿を完成させるとかの意識よりも、ちょっと失敗したニュアンスを含んでいることが多い。

二筒三筒四筒六筒七筒七筒三萬四萬二索四索六索六索七索 ツモ五索

ここで、つい二索を切ってしまうのが「手拍子」だ。
正着が六筒切りであるということよりも、ツモってきた五索に反応してつい二索を捨ててしまったという、その反応というか対応というか、そんなのが「拍子を取るように対処してしまった」わけで「手拍子」なんである。

「空聴(カラテン)」と「形聴(ケイテン)」

どちらも一応は聴牌形だ。
「空聴」は、その聴牌形に対して和了牌が一枚も無い状態。
一枚も無いっていう定義が難しいのだけど、例えば、二五筒待ちでその両方の牌とも自分で使いきっていたり、既に四人の河に捨てられてあったり、誰かが槓してたり、ドラの表示牌であったりして、物理的に和了牌を持ってくる可能性がない場合だ。
聴牌はしているものの、その牌姿での和了牌がカラなので「空聴」。
「形聴」は勿論、形式聴牌の略で、形式的には聴牌しているけれど役が無いために(ルールによっては役が確定していないために)和了ることができない形のことだ。
通常のルールであれば、河底撈魚でも搶槓でも和了れるのだから「形聴」だって立派な聴牌形なわけで、元々この言葉がナシナシルール(完先ルール)から生まれただろうことは容易に推測できる。
例えば、国士無双を聴牌しているけれども持っていない牌が四枚とも河に捨てられているような場合は、「形聴」でなく「空聴」と言うのが正しいのだけれども、それでもあえて「形聴」と呼ぶことがあるのは、もしかすると広義の「形聴」は「空聴」を含んでいるという認識があるのかもしれない。

「先付け」と「後付け」

「先付け」は「先に付ける」ことだ。
何かよりも先に何かを付けるわけで、この付けるものは、付け足しみたいな意味の付属物なのは当たり前。
飜牌だけの役で和了ろうとする場合に、飜牌を副露するよりも先に、他の面子を鳴くという行為が、この「先付け」に相当する。 主たる飜牌よりも先に付けた(晒した)付帯的な面子だから「先付け」なんだ。
さてさて、「完全先付け」の意味することとは正反対の意味を持っている「先付け」という言葉なんだけれど、それじゃあ「後付け」はどうなんだ、って話になる。
実は「先付け」というのは株式の売買などの商取引の世界で通用している言葉だが、この「後付け」は純粋な麻雀用語だ。 「先付け」よりも歴史は浅い(はずだ)。 この場合の「後に付ける」のは、役の主たるモノを指す。
飜牌だけの役で和了ろうとする場合に、先に適当な面子を副露しておいて、後で、以前副露した面子に付けた飜牌のことが「後付け」なんである。
というわけで、実は「先付け」も「後付け」も、同じ副露形態を指す言葉なんである。
勿論「完全先付け」という用法は間違った意味で使われはじめたもので、「先付け」も「後付け」も許さないルールのことを言う。

「ツモ切り」と「カラ切り」

これは簡単か。
「ツモ切り」は、ツモって来た牌をそのまま河に捨てること。
「カラ切り」は、ツモって来た牌を中に入れ、まったく同じ種類の牌を捨てること。
何のために「カラ切り」するかというと、実質的には「ツモ切り」と同じであることを対局者に覚られないようにするため。
因みに「ヒキボリ」は「ツモ切り」と完全に同じ意味だ。

「流局」と「平局(ピンチュイ)」と「荒牌(ホワンパイ)」

意味的にはどれも同じだ。
だけど、わざわざ取り上げたのはコーシャクをタれたいからだ(笑)。 おチャラケるつもりはないけど、今から述べるのはアタキの勝手な言い種なので、一般的な賛同を得ることはないだろうと思う。
まず「流局」だけど、これは「局が流れる」ということを意味し、この「流れ」は「水に流す」という場合と同じ用法であって、「何もなかったことにする」ということだろう。
たまに、輪荘すること(荘家が移動すること)を流局するという場合があるけど(つまり、連荘の反対の意味で流局という場合)、ちょっと性質が違うように思う。 流局でも連荘、という状況はあるものね。
その局を何もなかったことにする、ってーのが、流局の本質であって、例えば、聴牌料をやり取りするのは流局の本来の意味からするとチト違うんじゃなかろうか。
四風子連打や九種么九牌倒牌なんかで発生する状況こそが、流局という言葉には相応しいように思う。
「平局」は「平らな局」だろうから、今言った意味での「流局」と非常に近い雰囲気を持っている言葉だ。
だが、これは局の状況を説明している点において、用法が流局とは違って然るべき用語じゃなかろうか。
つまり、今、何事もなく終わった局が「平局」であって、「平局する」とか「平局させる」とか「平局してしまった」という使い方は、少し気持ち悪い。 まぁ、実際にそんな言葉を聞くことはないのだけれど、アタキ的に許せるのは「平局だった」とか「平局を目指す」みたいなのだけだ。
早い時点で親からドラ切りリーチが掛かり、そんなのお構い無しに一色に走る奴がいて、さらに別の誰かがオタ風を暗槓したような、波乱万丈、一触即発、驚天同地、スリルとサスペンスに満ちた展開の局であったにも関わらず、結果として「平局だった」、というような使い方が嬉しい。
「荒牌」で「荒れる」のは一体、何なんだろう。
「荒れる」じゃワカらんけど、「壊れる」「破壊する」「エントロピーを短時間の内に増大させる」と考えると何とかなる。
「壊れる」のは牌山(壁牌)であり、「破壊する」のは全員がそれまでせっせと構築してきた手牌である。 熱力学の法則に逆らって、懸命に作ってきた秩序を一瞬の内に無に帰す行為が「荒牌」なんである。
だから「荒牌」を字義の通り解釈するのなら、それが流局である必要はなく、誰かが和了して次の局が始まる前には必ず発生する事態であるような気がしてならない。
勿論、毎回「荒牌」なのでは、精神的に疲れてしまう(笑)ので、特別に誰も和了らなかった場合にだけ適用する言葉になってしまった、という歴史的な経緯があるに違いない(なんてーのは、アタキの勝手な想像に過ぎないので、簡単に信じてはいけない)。

「決め打ち」と「迷彩」

結果としてはどちらも似てるけど、そもそもの志しが違う。
「決め打ち」は、最終の牌姿や聴牌形を巡目の早い段階で決定しておきそれに従って手を進めること。

二筒三筒三筒六筒八筒九筒一萬二萬四萬一索八索東北中 [配牌]
一筒二筒三筒八筒九筒一萬二萬三萬一索二索三索中中 ロン七筒
二筒三筒四筒五筒六筒七筒八筒九筒二萬三萬四萬八索八索 ロン一筒

決して良い配牌とは言えないけど、下二つのどちらかを念頭において手を進めるのが「決め打ち」だ。
「迷彩」ってのは、河の状態を言うので、意識してそうしなくとも結果として「迷彩」を施した捨て牌となることもある。 「迷彩を施す」とは、最終的に自分でツモ和了りすることよりも他人からの出和了りを期待して「河を演出する」ことだ。
小島武夫がどこかに「決め打ち」と「迷彩」の違いを書いてたけど、今、アタキは思い出せないので、たいした内容じゃなかったのかもしれん(笑)。