平和である。
戦争でないから平和である、なんて言い方はしたくないけど、まぁ取り合えず平和である。
そもそも平和と戦争とを反意語のように使うことは間違っており、平和の反対は「混乱」だし、戦争の反対は「話し合い」もしくは「交易」なわけで、こんな当たり前の知識を得たのでさえ、ほんの数年前、既に四十歳に近づこうとしていた頃だったというのはアタキが麻雀にばかり没頭してきたから、というのは、う~ん、どう考えても言い訳にしか過ぎない。
はっはっは、もちろん、戦争の話でも「ヘイワ」の話でもなく、「ピンホウ」のお話である。
平和(←当然、ピンホウとかピンフと読むように)の話題は、多くの麻雀打ちが一家言持っているネタであるので、なかなか話題にしづらいもので、アタキだって言いたいことが山のようにあるのだけれど、今回は平和を構築する局面に絞ってのお話である。
平和にこだわらなければいけない局面というものが実際にある。
・オーラス、微差のトップで立直をせずに出和了りしたい時。
・ドボン間近で立直棒さえも無い時。
・リャンシバサンマで、七対子にできそうに無い時。
他にも色々とありそうな気がするが、アタキは一番最後の「リャンシバサンマ」で、平和の作り方を覚えた。
サンマにもいろいろとある。
もちろん、三人麻雀のことなのだけど、そのルールの一つに二飜縛り三麻、いわゆる「リャンシバサンマ」と呼ばれるものがあって、名古屋、島根、福岡、佐賀とかなり広範な地域で昔から楽しまれている。
二飜縛りなので、常に二役以上の役をこしらえなければいけないわけで、ただでさえ「ナシナシ(もしくは緩い完先)」という制限の中にあってさらに厳しい条件をクリアしなければ和了れないというのは、(麻雀本来の楽しみとは違うかもしれないけれど)それなりの趣きというか味わいというかフレーバーというか不思議な面白さを感じることができる。
リャンシバサンマの打ち手のほとんどは、こんなことあまり楽しいとは思っていないかもしれないが、たまーにしかやらないアタキにとって、このルールは充分に楽しいものだ。
この楽しさは、厳しい制限が課せられていることに起因しているので、縛られる楽しみなわけで、以前に「緊縛の愉悦」と題してアップした内容とその本質は同じだ。
上の牌姿は和了形なのだけど、これでは和了ることができない。
なぜなら何の役も無いからだ。
リャンシバサンマなら、この手に平和か断ヤオか一盃口を絡めて立直しなければいけないわけだ。
実はこの牌姿は、アタキが実際に目にした実戦譜からのものだが、正解は切りである。
リャンシバサンマで鍛えられた打ち手には平和を愛する心が宿っているので、何の迷いもなくに手をかけることができるわけだが、平和を愛する心を持っていないリャンシバサンマの初心者の中にはに手をかける者がいたりする。
あるいは、
のように、筒子部分の順子にが含まれていなければ、を外して断ヤオを狙う手もありかもしれない(とは言うものの暗刻牌の切り、あるいは切りの方が優位だ)。
狙いを断ヤオに絞ると、索子部分で二面子、筒子部分で二面子作ることになるのだが、問題は雀頭であって、雀頭が索子でなく筒子になった場合にがあるせいで、に届いてしまう可能性が高いために(そうなると断ヤオが確定しない)筒子部分を「二面子」か「一面子と雀頭」の形に固定する手、つまり暗刻牌の一枚外しが正解なわけだ。
平和の心の第一条は(別に一条である必要はないが)「数牌の暗刻牌は一枚外せ」である。
とは言うものの常に暗刻を嫌ってもいけない。
この第一条が適用できるのは、他にも雀頭候補があり、暗刻を崩して出来た対子が塔子への変化を望める場合だけだ。
ん~っと、ここらで実はそれぞれの選択における聴牌と和了までの有効牌の枚数について言及しようと思ったのだが、あまりに答えが明白過ぎて、この放言を読んでいる打ち手にはそこに書いてある内容の更に奥に隠された数値(役の確定と役の崩壊に関する数値)を突っ込まれそうなので、やーめた、である。
この例も実戦譜からだが、こちらの選択肢は限られている。
この手が平和であるためには、索子部分で雀頭を作るわけにはいかないので、かのどちらかが雀頭候補となる。
切りは、の受けを満足しないので(が入ると平和にならないっしょ)、正解は外しの一手しかない。
やよりも先に、かが入ってくれば(枚数は同じだ)、索子で雀頭を作るべく、第一条のルールに従っての一枚外しだ。
実際には索子の順子が確定する以外にも、この手が平和でスグに聴牌しないパターンはいくつかある。
【パターンA】
【パターンB】
【パターンC】
上からそれぞれ、
・ツモなら、打
・ツモなら、打
・ツモなら、打
が正解なわけで、ツモ牌と捨て牌とがどれもいわゆる「スジ牌」の関係を保っていることがわかる。
こうした関係は一般的な手順として当然のことなのだが、平和を構築しなければいけない、という今回の制限の中でも当てはまることが面白い。いや、平和にこだわるからこそ、からなのだろう、たぶん。
スジ牌というのは、河から安全牌を推理する以前に、その牌が河にある事実が手の中にスジ牌もあるという事実を伝えているということにこそ重きがあるわけだ。
上の三例における筒子部分の変化は、今回のテーマである平和制限という話を抜きにしても、定石ともいえる手筋なので覚えておいて損はしないが、こんな変化を記憶するのが苦手な打ち手は第二条を知っておくと良い。
それは「向聴数が変わらない変化ならツモった牌のスジを切れ」である。
現在の所、平和という役は連塔(一般的な塔子)での待ちにのみ適用されるものではあるが、辺張待ちであれ嵌張待ちであれ、最終的な四面子がすべて順子であれば平和とみなす、というルールであれば、話はもっとすっきりするし色々と考察できることも多い。
連塔は塔子のことで、辺塔子や嵌塔子と区別するためにアタキが作った造語だ。
「レンター」と呼ぶ。
順子が四つなら平和とみなすというルールは存在する。
おなじみ麻雀ハカセ、浅見了氏の提案する「純麻雀」がそれだ。
平和形でなければ和了れない(あるいは立直できない)という制限を前にして、誰もが遭遇するのは「入り目」問題だ。
こっちが入れば平和が成立するが、そうでなければ平和にならない、というパターンだ。
受けの選択での正着を続けていくことでしか確率を上げることはできないわけで、その選択は第一捨て牌時点で迫られるものだ。
【一巡目】 (ドラ)
捨て牌の候補は、なわけだが、多くの打ち手はを選ぶだろう。
雀頭はで決まりなので、がある以上、それは不要だからだ。
実際にはこの配牌プラス自摸なら、オリもありかもしれないが。
もちろん、もも不要であることは間違いない。
【六巡目】 (ドラ)
見かけは一向聴だが、実際にはそうじゃない。
どの嵌張が入っても平和にはならないので聴牌とは言えないからだ。
である以上、を外す手は悪手だろう。
大方の賛同を得られる選択は、打である。
が入ればマルだが、そうでなければかの入りに期待の一手である。
が来たら、とても悲しい(笑)。
なんて、構えていても、筒子面子よりも先に索子の二面子が完成してしまうことはよくある。
【九巡目】 (ドラ)
ここから、やを外しても聴牌ではないので、さて何切る、だ。
を外して、ツモにかけるか、七対子への渡りを付けるか、対子のを落として断ヤオを狙うか。
の対子落としは決して悪い選択ではなく、索子部分での一盃口への変化や新たな雀頭の作成を念頭においた手なんである。
ま、通常のルールなら切り以外の手は無いだろうが、平和の心を実戦している我々を待っているのは次の牌姿だ(切りでも切りでもどちらにも有効な入り目は割愛した)。
【十巡目】 (ドラ)
【十巡目】 (ドラ)
【十巡目】 (ドラ)
【十巡目】 (ドラ)
上の四例は、平和の心にはどれもそぐわない(か、もしくはフリ聴)なので、実は、やはり九巡目にはを一枚外して、次のような牌姿を想定すべきなのだ。
【十巡目】 (ドラ)
【十巡目】 (ドラ)
【十巡目】 (ドラ)
【十巡目】 (ドラ)
この形なら何とか戦えそうだ。
切りを選択した際の最高形である、ツモ時には、残念なことに聴牌に取れないが、まだ挽回可能な牌姿であると言える。
【十巡目】 (ドラ)
ああ、平和にこだわったおかげで、こんなに色んな展開を考えることができた。
今回は楽しゅうございました(笑)。
今回紹介した以外にも平和の心にはいくつかの掟がある。
「完全安全牌でない飜牌は叩っきれ」「暗刻は序盤の間に一つだけに整理しろ」「平和がダメなら七対子」「平和とチャンタは両立しない」「好牌先打は敵を欺く目的でなく受けを固定する為の戦術」「ノベタンの構えは一向聴まで」等々。
どれも戦術書には書いてないアタキのオリジナルな掟なので異論反論も期待しつつ、いずれ紹介したいものだ。