麻雀打ちの頁/雀のお宿

一定点数に達したら半荘が終了してしまうテッペンルールはドボンよりも楽しい。ブーマンのエッセンスの一つであるブー(=テッペン)は、麻雀に新たな目標を設定するものだ。

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魅惑のテッペン

ドボンは広まったのに…

 知らない人は知らないけれど、知っている人は数少ない事実の一つに、アタキが若い頃ブーマンにどっぷりと嵌っていたという事実がある。
 アタキのオフ的な知り合いでもなければ、何の役にもたたないことなので、この事実を知ったとしてもスグに忘れてくれてかまわない。いや、知り合いにとってもまったく意味の無いことなので、忘れるのがよかろうと思う。
 と言うわけで、ますますもって、アタキがブーマン雀士であった事実は、ほとんど誰にも知られることのない事柄になってしまった。
 少し、さびしい。
 さびしい時には、雀荘へ出向くに限る。
 どこのクラブも孤独なアタキを暖かく迎えてくれる(と信じている)。
 ブーマンの素敵なところは、ゲームの進行が速いので、長時間待たずにスグに卓に付けることだ。
 現在では東風戦のクラブも多く、中には客の出入りが激しい雀荘もあるが、パッと入ってチャチャット打ってサッと席を立つのに何の気兼ねもいらないのは20年以上前のブーマン雀荘が一番だ。普通の勤め人でも、会社の昼休みに楽しんでたりもした。
 1ゲームの所要時間は、5分~20分の筈で、早い時には3分でカタが付くことなんてあった。カップ麺が出来上がるよりも速くトップを取れることがあったわけだ。
 ファーストフードならぬ、ファースト麻雀だったのだ。

 今ではなかなかお目にかかることのできないブーマン雀荘とそれを支えていたブーマン(←まんまじゃ)が、そうでない麻雀に強い影響を与えたモノがある。
 それは「ドボン」だ。
「トビ」とか「箱割れ」とか「ぶっ飛び」とか、すまん、どれも同じ意味だが、この「持ち点が底を付いたら半荘が終了する」という規則は、今日のフリー雀荘では一般的なものだが、ブーマンブームが訪れる前には決して市民権を得た規則では無かったはずだ。たぶん、親に役満を振り込んだ後も「2万点借り」だとか言いながら、延々と南場四局まで勝負を続けていたわけで、辛抱強いと言うか、ヒマと言うか、奥ゆかしいと言うか、何か偉いぞ、高度成長期以前の日本人!てな気がしてくる。
 東京オリンピック(=東海道新幹線開通)と時を同じくして関西以外にも広まったブーマンが、現在の一般的な麻雀に残している痕跡は「ドボン」規則だけなのだが、何故、それ以外のブーマンのエッセンスが消えてしまったのだろうか。
 ブーマンをブーマンたらしめている規則の内、「ドボン」の重要性なんてそれほどでもないのに、何故「ドボン」だけが、他のルールと融合し、生き残ることができたのか、なかなか味わい深い疑問なのだが、今回の放言はその話題ではない。
「ドボン」と対を成しているブーマン独自の規則(当然、ドボンのことじゃない)についてである。

 ブーマンの開始持ち点は、通常、満貫分の点数である。
 満貫といっても8000点という意味でなく、場ゾロがいくつ付いているか(無い場合もある)によって地方により上下する点数ではあるのだが、一応、満貫(に相当する)分の点数を各自が持ってゲームがスタートする。
 そして誰かがドボンするか、誰かが満貫分を浮いた時点でゲームが終了する。 ドボンというのは持ち点がゼロ以下のことで、満貫分を浮くというのは持ち点が満貫の二倍以上になることである。
 まぁ、たま~に、そんな事態にならずにオーラスまで続いたり、地方によってはオーラスという概念が無かったりといくつかのバリエーションは存在したが、とにかく目指すのは自分が満貫分を浮くか、誰かをドボンさせるかという状況だ。

ブーマンの規則を説明することが今回の目的じゃないので、細かいことはキャッツアイ(割愛)←オヤジ。

 現在の一般的な開始持ち点は満貫分じゃないけど、持ち点がゼロになることを「ドボン」と呼んでいるわけで、このドボンの面白さは取り立ててアタキが言うまでのことじゃない。
 でもって、その反対の状況(=持ち点が一定になると半荘終了)も、ドボンに負けず劣らず、楽しいルールなんですよ、というのが今回のテーマだ。
 この、一定の持ち点に届く状況のことを一般的に何と呼んだら良いのか、うまい言葉を考えつかなかった数年前のアタキは、自宅で仲間内で囲む際に、それを「テッペン」と呼ぶことにした。アタキ自身が言い出したのか、仲間の誰かが思いついたのか今となっては定かじゃないが、一応、造語であるのは間違いない。

 テッペンの魅力の一番は、だらけた半荘廻しの回避だ。
 荘家が東場で四暗刻を自摸ってしまった半荘に残されたものは、トップ以外の着順争いと赤祝儀のやり取りだけだが、こんなの麻雀じゃない。
 麻雀とはトップを争うゲームなのだ。
 トップ者が決定したなら、新たなゲーム(=次の半荘)に取り組むのは至極当然のことである。
 いやまだトップが確定したとは言えないという意見もあるかもしれないが、この状況をひっくり返す努力をするよりは、新たな半荘を開始した方が何倍も楽しいじゃないか、と言いたい。
 そうじゃないという意見のある方がいたって構わないので、そうなんだというアタキの意見も認めていただきたい。
 ドボンの場合には取り返せない点数になってしまったわけじゃなく、まして四着が完全に確定したわけでもないのに、半荘を終わりにさせられるという、ある意味、理不尽なルールを採用する程度には、そのグループの良識があるのならば、テッペンの理不尽さなんてドボンの比じゃない、てことは明白である。

 テッペンの採用によって、勝負がイケイケになる可能性が高いというのも魅力の一つだ。
 アタキは全員がイケイケの、線形的な争いこそが魅力的だ、などと言うつもりはない。
 通常ならある程度の持ち点を有している打ち手は守りに入っていても何の問題も無いのだが、テッペンの採用により、テッペンに近い打ち手は、目の前においしいエサがぶら下がっているわけで(=オーラスまで続けることをせずにトップが転がり込む)、それを目指す局面はそうでない場合よりも多くなる可能性が高いのだ。
 後2千点でテッペンに届くのなら、オーラスだと思って勝負に走るわけで、アタキの経験上でも実際にテッペンチャンスをしっかりとモノにできる打ち手こそが真の強者であると言えそうだ。
 アタキは、ノー爆の八橋のセリフ「リードは守るものじゃなく、広げるものだ」にシビれた人間だ。

 テッペンルールに全員が慣れてくると、展開の妙が生まれてくることは特筆すべきことだ。
 テッペン候補者のリーチには誰も振り込むことは無くなるだろうし、テッペン候補者の副露にも誰もが敏感に対応するようになる。
 当たり前である。奴に和了られたなら半荘が終了してしまうのだから。
 奴が自身満々で、追い掛けリーチに来たなら、先行リーチ者に差し込むことだって必要な戦略の一つだ。多少、自分の持ち点が少なくなっても、奴のトップ(=自分の完全な負け)を阻止することはトータル的にはマルなはずである。
 通常のドボンしか採用されていないルールでは、自分がトップでなければイタズラに他人をドボンなんてさせないのと同じように、テッペン候補者には和了られてはいけないのだ。
 親のドラポンよりも怖いのは、テッペン候補者のダマ聴であることを理解できたら、その打ち手はテッペンルールに充分対応できるようになったと考えても良い。
 雀鬼会の「仕事」という言葉の本当の意味は、ドボンしかないルールでは理解できないかもしれない。あの会長がテッペンルール(ブーマン)を熟知しているからこそ発生した自然な掟なんである。

 こんな風に、本当に楽しいルールなので、一つでも多くのクラブ、グループでぜひともこの「テッペン」ルールを採用して欲しいものなのだが、その点数設定はどれくらいにするのがイイだろう。
 アタキは、開始持ち点の2倍(25000点持ちならば50000点)という設定にしていた。この「2倍」はブーマンの伝統を踏襲したものだ。
 あるクラブでは、50000点では頻発するので、53000点としていることもある。
 50000点から60000点(=原点の2倍)の間というのが好ましいように思う。この、好ましいと思ったことの根拠は何もない。

「奴をドボンさせるように」あるいは「自分がドボンしないように」と考えている平成の麻雀打ちの思考がさらに高まって、「テッペンに届くような」手作りや「奴にテッペンを取らせないような」打ち回しを心がけることが常識となったら、もっともっと麻雀の面白みは増すに違いない。
 いや、その面白みは麻雀本来のそれとは違う、なんて意見は却下である。
 麻雀本来の、なんて実体はどこにも無いし、アタキが面白いと思っているものを面白くないと否定することは誰にもできない。ぎゃははは。

ぎゃははは、で終わったが、もっと伝えたいことがあったのに、書き出してみたら忘れてしまった(笑)。
仲間内のルールに飽きた上級者の皆さん、ゼヒ、お試しあれ、である。
ただ面白いだけでなく、それなりに奥も深いことが理解できるし、手役と点数状況を常に把握しなければ勝ちにつながらない規則なので、上級者にはうってつけのルールでもある。