麻雀打ちの頁/雀のお宿

独自ルールの「連荘選択権」という規則に関する考察。フリー雀荘で採用されている「和了りやめ」をきっかけにして考えた規則、その意義と目的について。

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雨上がりの不思議

そもそも、和了りやめってのが気持ち悪い…

『連荘選択権』なんてオカシイ、という意見はよく理解できる。
アタキだって、自分で作った『Bルール』以外ではお目にかかったことはない。
こと規則に関しては保守的だ、なんて言ってるわりには、よくもまぁ勝手に次から次へとヘンな言葉を思いついて、ウェブ上にアップできるものだ。
うん、他人事じゃない。 アタキ自身のことだ。
実は保守的なんじゃなくって、保守的でありたいと思ってるだけのような気もしてきた。 そもそも規則についてああだこうだとノーガキを垂れることそれ自体が充分にエキセントリックで革新的なことだとしたら、それは周りのみんなが怠慢なせいだ。 それは革新的でなく、ただウザイだけだとしても、その責任の一端は、アタキを取り巻く環境にある。
まぁ、いいや。
その『連荘選択権』についてだ。

『連荘選択権』とは、連荘するかしないかを自らの意志で決定できる荘家の権利のことだ。
荘家だからっていつでもこの権利を行使できるわけじゃない。 局が終了した時点で聴牌っているか、和了った時だけなのは当然の話。
うん、つまり通常の規則ならば連荘しなくちゃいけない場面において、必ずしも連荘しなくてもイイよ、という規則なわけだ。
連荘することが荘家にとって常に有利であるわけはないので、そうするかしないかは好きにできるよ、というわけだ。
しかし、だ。
やっぱ、ナンかオカシイ。
そもそも「自らの意志で決定できる」なんてーのがあやしいし、「そうするかしないかは好きに」なんてーのも、麻雀の規則っぽくない。
連荘するとかしないとかドーデモ良さそうなことを、その時の気分で(というのは少し違うケド)勝手に決めるなんて、チトまずいんじゃなかろうか。 安目のロン牌を見逃すとか、振り聴でリーチするとか、そういった麻雀の本質に近い部分での意志による選択肢が多いのは結構なことだけど、連荘するしないを自由に決めるというのは、例えば、四人全員の配牌がよくないからもう一回配り直すとか、ドラが字牌で使いにくいからもう一枚ドラを増やすとか、そんなふうな滅茶苦茶なことに通じるような気がしてきた。
なんだぁ。
自分で決めてて、やっぱ、オカシイってか。

問題は、『連荘選択権』なんてことを何故、思いついたか、なんだ。
事の発端は、『オーラスでの和了りやめ』なんである。
オーラスの荘家にだけ附随した、この『和了りやめ』というオプションのせいだ。
一般にオーラスの連荘条件には次のようなバリエーションがある(勿論、「一般」とは「一般のフリー雀荘」という意味だ)。
 ・散家の誰かが和了るまで永久に続行。
 ・荘家が和了ったなら続行。
 ・荘家が和了って、トップならやめなければいけない。
 ・荘家が和了ったならやめても良い。
 ・(荒牌で)荘家が聴牌なら続行。
 ・(荒牌で)荘家が聴牌でトップならやめなければいけない。
 ・(荒牌で)荘家が聴牌でもやめても良い。
うん、まぁなかなか色々あって面白い(嘘)が、ほんの少し前まではこんなに多くのバリエーションはなかったのだ。
アタキの経験だけを頼って、この和了りやめの歴史をひも解くと次のような変遷をみたのは間違いない(と断言できるのは、たかがアタキの経験にしか頼ってない結論だからだ)。
 ・オーラスの荘家が和了ってトップだった場合にはもう連荘したくない。
 ・ここで初めて、和了りやめ、という規則が生まれた。
 ・しばらくして、トップでなくともやめたい局面もあった。
 ・順位ウマを採用しているなら、よくある話だ。
 ・半荘が早く終了するのはクラブ(テラ)としてもありがたい。
 ・そのうちに、聴牌でも終了したってかまわんじゃないか、と誰かが思った。
 ・さらには、トップの場合には、連荘したらいかん、というのまで登場した。
最後の「連荘したらイカン」という規則に遭遇した時にはブッたまげたのはアタキだけではないだろうと思う。 ノー爆で八崎がいった名セリフ「リードは守るものじゃなく、広げるものだ」なんてーのを信条にしている身としては、なんともつまらん規則であって、おいおいそこまでして場代を早く取らんでもいいじゃないか、と憤慨した。 だけども、この和了りやめという規則を採用しているのならば、半荘の最終目的であるトップ状態を達成しているのに、それを行使せん手はないわけで、わりとスンナリと多くのクラブに浸透してしまった困った規則でもある。
アタキがピピピッと感じたのは、これではオーラスの荘家はそうでない者と比べてかなり有利すぎるんじゃなかろうかってなことだ。
他の親は自分がトップ目であっても、和了ったり聴牌だったりの場合には必ず連荘しなければいけないのに、オーラスの場合だけ連荘せんでも良いというのは、バランスが悪すぎると思った。

ドボンを採用している以上、最も有利なのは東発(トンパツ)の親であるのは言うまでもない。 そして一番不利なのが北家スタート。
それを調整するための目的としての『オーラスでの和了りやめ』という考えはどうだろう。
ち、ち、ち、違うよな、やっぱ。
『オーラスでの和了りやめ』は、南家スタートにとっても西家スタートにとっても等しく不利な(て言うか、北家スタートにとってのみモノスゴク有利な)規則なわけだから、調整というのは当てはまらない。
もし、本当に調整ってことなら、ラス前ならば二回目の連荘からは和了りやめできる、南二局なら三回目の連荘からは和了りやめできるってな風にせんとイカンだろうし、本当にそんなややこしい規則だったら、やっぱ、ヤだ。

とまぁ、北家スタートにだけとても有利な規則で、しかも個人的には好きな部類の変則ルールである『和了りやめ』を何とか活かす手段はなかろうかって考えた結果の『連荘選択権』であるのは、まぁ判ってもらえたはずだ。
こうすれば、オーラスの特例なんて設けるまでもなく、トップ目ならば早く場を廻したいという欲望も満足できる。 こうすれば、早く場代の売り上げを伸ばしたいクラブ側の賛同も得られる。 こうすれば、何万点もプラスしたようなバカデカイトップ者が発生したような半荘だって、軽~く終了させることができる。
ルールに関してのみの教条主義者がたまにいるけど、こいつらが一番嫌うのが「特例」であって、特例がなくなるだけでもうそれで充分、素敵なルールであると思ってしまうことがあるけど、しかし残念なことに、この『連荘選択権』は彼らを満足させるものだとは言えそうにない。
そんなの見たことも聞いたこともないからであって、アタキも同感だ。
うん、失敗。

北家スタートって本当に不利なんだろうか。
個人的には確かに好きではないけど、何故なんだろう。
一番好きなのが東発(トンパツ)なのは、たぶん、自分に倍満の手が入った時にリーチを掛けた散家から出和了りすれば、それでトップを取れるという考えからだけど、これが倍満でなく役満でも同じことだ。
その点、北家スタートだと、いきなり絞り気味に手を進めなくちゃいけない点が辛い所かな。
途中で誰かがドボンして自分の親番が皆より少なくしか廻ってこない可能性が高い、というのも嫌な所だ。
ん?
何故、「自分の親番が皆より少なくしか廻ってこない可能性が高い」と嫌なんだろう。
親はそんなに有利ではない、てことは、既に証明済み(『オヤの有利さ』)なのに、うううっ、このあたりの感覚のズレというか、論理的に導かれた結論でも、体に染み付いてしまったこと(=やっぱ、親は有利だという思い)は簡単には消せないってことなのか。

いつの日か、『オーラスでの和了りやめ』が普通の規則になるってことはあるだろうか。
フリー雀荘では既にそうなっているけど、職場の仲間内で囲む場合や、テレビゲームやネット対戦でもこのルールが一般的なルールだと広く認知される可能性があるか、ってことだけど、充分、あり得そうな気がする。
『裏ドラ』や『リーチ一発』や『赤ドラ』や『聴牌料』みたいに、この『和了りやめ』が一般的になってしまうのは、どこか気持ち悪い。 この気持ち悪さは、アタキが保守的な考えだから、だけじゃないよな、たぶん。