麻雀打ちの頁/雀のお宿

符計算についてのあれこれ。こんなめんどうなことだけれども、これはこれで麻雀の醍醐味の一つかも。

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計算する人

計算なんて誰もが嫌いだとは思うが…

 和了った時の点数計算の話。
 実は、アタキは点数計算ができない…、なんてワケはない。
 でも、時々、間違えることがある…、なんてこともまったくない(たぶん)。
 麻雀を覚え立ての頃は当然できなかったけれど、ほとんどの打ち手と同じように、他人から教えてもらいながら、あるいは自分で勉強しながら、点数計算ができるようになった。
 七十符とか九十符とかの申告の方法は、もしかすると一般的な打ち手とは違うやり方かもしれないけれど、まぁ、実践で困らない程度には自分でパパパッと計算できる。

七十符なら三十符プラス四十符、九十符なら三十符の三倍、というのがアタキのやり方だ。
当然、十点単位に切り上げる前の点数での足し算だ。
百符なら、う~ん、実はこれは暗記してしまっているのだが、もしそうでなければ、三十符プラス三十符プラス四十符とするだろう。 間違っても三十符の三倍プラス十符、なんてことにはならない。 十符なんて、考えないと出てこないからだ。

 いくつかのフリー雀荘では、メンバーの誰よりも早く正確に計算できたりもするので、アタキが点数を宣言した後では誰も口をはさまない。
 なんだか偉そうな感じだが、実際に偉そうにしていたりもするのだ。
 世の中には麻雀を何年もやってて点数計算できない打ち手が存在する。
 なぜ彼らが点数計算できないのか、計算の方法を覚えようとしないのか考えてみようと、ついさっき思いたったのだが、たいして特別な理由があるとは信じられないので、やーめた、である。
 でもせっかくこうして書き出したので、点数計算のあれこれについて考えてみる。
 …ちゃんと最後まで続きますように(笑)。

 和了形の点数計算には二段階のステップを必要とするのが一般的だ。
 一つはその手が「何符何飜」であるのか、もう一つはそれで実際にやり取りする点数がいくつなのか、だ。
 きっと大昔は、その二つは渾然一体となっており、「何符何飜」であれば「何点」であるのかは自明のことだったのだろうけど、現在の麻雀では誰もが(たぶんあまり意識せずに)頭の中で二つのステップを通過して、点数をはじき出している。
 これは想像だけれども、実はこの「二つのステップ」を踏むことはとても難しいことで、点数計算できない打ち手の中には、この困難さを克服することを断念した結果として点数計算できない状態に置かれている、という不幸な事態もあったりするのではないだろうか。
 いやいや、んなわけはないよな。やっぱ、最初に覚えるのは、この手が「何飜なのか(あるいは何役なのか)」だろうし、それに慣れさえすれば二つのステップを踏んでその手が何点なのかが判明する、というのは明らかなことのような気がする。
 だけどもしも、この「二つのステップ」を一つにできたら、それはそれでとてもスッキリとしてくるのでないだろうか。うん、きっとそうだ。

 というわけで点数計算スッキリ覚えようの第一は(何だ、そりゃぁ)、「最初に何符なのかを見極める」である。
 飜数は後回し、どんな手でもまず符の計算をやっちまおう、である。

二筒三筒三筒四筒四筒八筒八筒四萬伍萬六萬五索六索七索 (ドラ六索) ロン五筒

 上の手は三十符なのである。
 ピンフなので取りあえず倍して六十符ということにしておくのである。
 よく見るとタンヤオなので、さらに倍して百二十符としておくのである。
 ドラがあったりもするので、さらに倍して二百四十符というのが、この手の点数。
 そして実際にも二百四十点をやり取りすれば良い、というルールだと素敵なのだけれど、そこはそれ従来からの習慣というか風習というか世の流れというか、そんなものにも従って、散家であれば最後の最後に16倍して(何だ、そりゃぁ)3840点、切り上げて3900点をやり取りするのだ。
 …、うん、大失敗。こんなやり方はアタキだって絶対にヤだ。
 特に最後の「16倍して」というのが気にいらない。荘家だと24倍しなければいけないわけで、これでは電卓が必要になってしまう。
 とは言うものの、点数の体系は完全にフォローしているので、こんなことをちゃんと理解していると「六十符三飜」と「三十符四飜」とが同じ点数であることや、「散家の六十符」と「荘家の四十符」が同じだということなんかが自然に判るというものだ。
 あ、別に判らんでもイイってか。

 点数計算の第一ステップである符の算出において話をヤヤこしくしているのが、「雀頭の符」と「刻子の符」だ。
 アタキは以前から「么九牌(数字の1と9)や風牌が雀頭なら平和とは認めるべきじゃない」なんて考えているのだけれど、誰も賛同してくれない。
 例えば、断么九牌(2から8の数牌)ならば雀頭の時には加符されずに明刻なら二符、暗刻なら四符付く。そして三元牌ならば雀頭の時には二符付き、明刻なら四符、暗刻なら八符付く。
 このシステムはすごく判りやすいと思えるのだが、么九牌はこれらとは別の体系になっているのが歯がゆい。

雀頭と刻子の符
種類雀頭明刻暗刻明槓暗槓
断么九牌16
么九牌1632
客風牌1632
自風牌1632
三元牌1632

 この「么九牌」と「客風牌」の所は、何かヘンな感じがするだろう。
 刻子になっても一飜役とはならないのだから、いっそのこと「断么九牌」と同じにしてしまうか、それほど過激なのがヤなら(アタキはヤだ)雀頭時に加符されるのが自然じゃないだろうか。
 場風については、話がもっとややこしくなるので避けよう。

 そもそも雀頭と刻子を一緒くたにして論ずることに無理がある、という意見もありそうだ。
 でも、表の「断么九牌」や「三元牌」の行をながめていると、一緒に考えてしまいたいと欲求を押さえることはできん(今、これを隣で見ている奴が「0じゃなくって1の方が論理的」だと。少しウけた)。

 点数計算を正確にできることの重要性を初心者に説く(アタキも含めた)上級者が口にすることの一つに「トップ取り」あるいは「より高い順位を得る」ための必須事項として、というものがある。
 普通の麻雀の半荘における最大の目標はトップを取ることが一般的なので、それまでの持ち点を考慮しながら手作りを行うことは面白いし、充分に意味のあることだ。
 点数計算が正確にできない打ち手は、初心者の多くがそうであるように、それまでの局と同じくどのような場面でも高い点数を狙うか、早い和了りを狙うか、門前でリーチすることを狙うか、あるいはいつも役満へのロマンを抱いているのだろう。目標がトップを取ることであるのなら、彼のこうした狙いは目標に沿った行為でないことは明白であり、エネルギーの無駄遣いでもある。
 実は彼にとっての目標がトップを取ることとはかけ離れてしまっているとも言えなくもない。
 目標が違う打ち手と同卓するのは精神的に疲れるので、上級者は無理にでも点数計算を覚えさせようと努力するのかもしれない。
 だけど、点数計算ができるようになったからとしても、彼の目標がこちらと同じになるなんて保証はどこにもない。 無駄な努力かもしれない。

 無駄な、という意味でなら、局のほとんどの和了りが満貫以上となるようなインフレルールにおいてこそは、細かな点数計算こそは無駄なものの最たるものだ。
 いつも満貫級の手を目指し、そうでない場合にはリーチしても出和了りを拒否し、ツモにかける最強の打ち手には細かな点数計算は必要ない。実際にはなかなかそうはならないからこそ、今でも符の計算なんてーのがなくならないわけだけど。

なんだか久しぶりの[放言]で調子が出ない。
話が支離滅裂のまま終わってしまった。
さっきまで、満貫未満の点数体系をスマートにするための画期的なアイデアについて言及するつもりだったけど、疲れたのでここまで。 そのアイデアについては、近い内に[創語]の方にアップされるだろうと予想している。